連載コラム

三好徹-ゴルフ互苦楽ノート

ゴルフとの不思議な縁

2014/8/8 21:00

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キャッチボールをしていたらボールがよその家の塀を超えてそれを探しに行ってみると……



 わたしがゴルフのボールを初めて手にとったのは、小学校低学年のときだった。当時の男の子の遊びはゴムボールを使うキャッチボールだった。グラブを使う軟式野球のボールではなくて、素手でつかめるボールである。グラブをはめなければ痛くて捕球できない野球は中学に上ってからだった。やわらかいゴムボールは、捕球にしくじって顔面にぶつかっても怪我する心配はなかった。また、バットがなくても、何か棒があればボールを打つことができた。当時の町名でいうと、わたしの家は北品川三丁目にあり、小学校は五反田へ行く途中にあった。一学年男女各50人、従って全校の生徒数約600名という学校だったが、それでいて25メートルのプールがあり、立派な雨天体操場もあった。あとでわかったことだが、実験的に開設した小学校で、いわゆる通信簿がなかった。つまり国語などの学科の成績は、教師はわかっていても、生徒の父兄には通知しなかったのである。

 生徒にはそんなことはわからない。帰宅してから机に対して勉強したという記憶がないのだが、近くには立派な家が多かった。奥まったところにある大邸宅は長く三井物産会長をつとめた益田孝の居宅だったが、太平洋戦争がはじまったころにはビルマ大使館になった。また「西園寺八郎」の標札のある家は、ある日突然居住者がいなくなった。あとでわかったことだが、元老西園寺公望公爵の養子の居宅だったが、ゾルゲに情報をもらしたと疑われて引き払った。その空き家の前の道をへだてた家の標札が「山本英輔」だった。わたしたちの遊びのボールは、しばしば両家の塀を越えた。無人の西園寺家には木戸をこじあけて入った。山本家には声をかけてボールを取りに入らしてもらうのだが、無人で返事のないときは、勝手に塀を乗り超えて入っていた。そのとき白い小さなボールが庭の中に何個か落ちていた。

 それを手に取ってみたが、固くて小さいから、キャッチボールには使えない。地面に叩きつけると、わたしたちの背丈くらいはハネ上る。しかし、使い道がないから、山本家の庭に投げ返しておいた。

 山本英輔は鹿児島出身の海軍大将で、日本海軍の育ての親といわれた山本権兵衛の甥である。連合艦隊司令長官や軍事参議官をつとめたあと「二・二六事件」のときに反乱軍の陸軍々人と連絡をとったと疑われて予備役に編入された。海外の駐在武官時代にゴルフを覚えていて、帰国してからもゴルフをしていたと思われる。当時のゴルフボールは高価だったから、悪童たちがポケットに入れたままだったなら、怒ったに違いない。前に、日中戦争前からマッカーサーの解任までの昭和史を書いたとき、アメリカやイギリスの軍人たちにはゴルフ好きが多いことに気がついた。 

 太平洋戦争がはじまったとき、日本軍はマレー半島を南下して、シンガポールを攻略した。大英帝国の東洋における根拠地だから、一日でも早く陥落させる必要があったのだ。英国軍もそれがわかっていたから、ゴルフ場を接収して堅固な陣地を作ろうとした。そのために司令官のパーシバル中将はコースにそれを申し入れた。日本陸軍なら有無をいわさずに実力で接収したところである。防衛のために所有者の気持などは問題外なのだ。

 この一件をどう見るか、それは文化論としておもしろいテーマなのだが、十代の若者のころから陸軍幼年学校、陸軍士官学校に入って戦闘に勝つことを第一に教育された日本の軍人たちにしてみれば、それは考察に値する問題ではない、と断定したはずである。日本の軍人はかりに時間的な余裕があったならば、ゴルフをするよりも剣道や柔道で汗を流すはずである。これに対して日本に乗りこんできたマッカーサーは、米陸軍の歴史の中でもっとも若くして参謀総長をつとめた秀才だったが、およそ趣味を持たない男だった。しかし、部下のアイケルバーガー中将らはゴルフ好きで、日本に乗りこんでくると、すぐに日本のゴルフ場を接収し、プロの中村寅吉を専属コーチにした。中村はのちにカナダカップに出場し、サム・スニードらの米国チームに勝ち、個人優勝もなしとげた。一九五七年のことで、そのあと第一次ゴルフブームがはじまったのだ。敗戦後の日本にはゴルフボールの生産工場はなかっただろうから、占領軍の幹部たちに中村がレッスンしなかったならば、ゴルフボールはもとよりアメリカ製のアイアンなどを入手することは不可能だった。わたし自身がゴルフボールを手にするようになったのは昭和五十年ごろからで、その時に小学生時代山本英輔邸の庭で手にした固いボールの感触を思い出したのである。

 ゴルフとの縁は、人それぞれである。わたしは同世代の二人といっしょに出版社の役員にすすめられてはじめたのだが、そのあと三人が出版社主催のゴルフ会に出たとき、城山三郎さんにいわれた一言は忘れ難い。城山さんは、

「よかったね。これできみたちの寿命は少くとも十年は延びるよ」

 といったのだ。それまで仕事を離れての気分転換は銀座のバーかマージャンだった。わたしは碁を打ったから、酒場や雀荘で時間をつぶさなくても健康的に時間を過せたが、少くとも十キロメートルは歩くゴルフの方がはるかに健康的だった。三人のうち一人は昨年八十五歳で逝ったが、残る二人は、あと数年は何とか保ちそうである。歩くのが面倒になってすぐにカートに乗ってしまうが、それでも歩くことは歩く。直木賞の第一回受賞者である川口松太郎さんが中心になって作ったペンマンゴルフ会(略称をPGAという)は今では十数名に減ってしまった。若い作家たちは、仕事をしないとき何をして時間をつぶすのだろうか、と出版社の人に聞いてみるのだが、酒場や雀荘には行かず、むろんゴルフはしないという。因に、人名大辞典によると山本英輔氏は一九六二年に、明治九年生れの平均寿命をはるかに上回る八十六歳で死去している。

三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けてきた作家。

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