連載コラム


米ツアーシード獲得

2015/6/27 22:00

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日米をかけもちしながら米ツアーに本格参戦



 米ツアーへの挑戦を決めた1993年。ボクは米ツアーで12試合を戦って13万9784ドルの賞金を獲得した。賞金ランクは115位。125位以内に入ったことで翌年のシード権を獲ることができた。

 翌94年は本腰を入れて米ツアーに出場をはじめた最初の年になった。

 といっても、フルタイムで米ツアーだけに出ようとしたわけではない。米ツアーに出場しながら日本ツアーでも戦い続ける、かけもちプレーを選択したからだ。当時、米ツアーに挑む日本の男子選手は日米のツアーをかけもちするのが普通だった。筆頭は青木功さん。青木さんはヨーロッパツアーなどを含めて年間40試合くらいを戦ったこともあった。

 「米ツアーに挑むけど、本家である日本ツアーにも参戦する」

 日本でトップに立った選手なら、そんな感覚をもっていた時代だった。ボク自身も日本で戦うのが大好きだったから、両ツアーのかけもちが決まったのは自然なことだった。

 どちらのツアーも、出場権を維持するには決められた数だけ試合に出なければならない。そうしてツアーの試合を盛り上げるのは当然の義務だ。その試合数は年によって多少の変動があったが、12〜15試合くらいだったと記憶している。

 日米のかけもちを両立させるには開催時期のズレを活用する方法が有効だった。米ツアーは1月からはじまり、夏場には山場が来て終わるのは秋。早くはじまって早く終わる。日本ツアーは3月に開幕し、初冬の12月初旬で閉幕。はじまりも閉幕も遅いのである。

 このズレを利用するため94年は『ハワイアンオープン』(1月16日終了)を開幕戦にした。そこから3週連続で出場し、2月は『ロスオープン』(2月13日終了)に出て、2週間後の『ビュイック招待』(2月27日終了)から『フリーポート・マクモラン』(4月3日終了)まで5連戦した。この年は『マスターズ』の出場権がなかったから、その前週まで連戦したんだ。

 その後、いったん日本に戻って『つるやオープン』(4月14日〜17日。スポーツ振興CC。兵庫県)から『中日クラウンズ』(4月28日〜5月1日。名古屋GC和合C。愛知県)まで3連戦。『クラウンズ』は優勝したロジャー・マッカイ(豪州)選手に2打差の単独2位。さらに1打差の3位は杉原輝雄さんだった。その後に渡米して『バイロン・ネルソンクラシック』(5月15日終了)から3連戦し、6月は2週目の『ビュイック・クラシック』(6月12日終了)に出場。さらに月末の『ハートフォードオープン』(6月26日終了)から『アンハウザー・ブッシュ』(7月10日)までを3連戦した。

 こうして1年の前半6カ月で20試合(米ツアー17、日本ツアー3)をこなしたのは初めてだった。かなりハードな日程だったが、それでも米ツアーでは15試合で予選を通過。通過率88パーセントで来年のシードがほぼ確実なラインまで賞金を積み上げた(約14万7000ドル)。前年は13試合中8試合の通過で約62パーセントだったのだから、「一歩ずつ前に」進めた年になった。

 米ツアーに慣れたこと。そこで戦いながら吸収したいろいろなことが、自分のゴルフの安定度を高めてくれたと思えた。

 翌年のシード権が確保できたことで、ボクはこの段階で日本ツアーに戻ることにした。最大の目標が達成できたからだ。

●自分のゴルフ技術を確立したい

 まずそういう大きな夢があり、それを実現するためには時間がかかる。20年以上をかけてきた自分流のゴルフを変えるには、1年や2年ではむずかしかったからだ。その期間はシード権を獲って試合に出なければならないからだった。

 この年の最高成績は6月の『ビュイック・クラシック』。

 初日から69、67、69(パー71)と60台を続けられた。最終日は72にしたものの、8位タイで3万2400ドルの賞金が獲得できたのだ。

 ベストテンに入ったのはこの1試合のみ。だが20位までに入った試合がほかに4試合あり、これも「前に進めている」という手ごたえになった。

 このまま順調に進めて成績を上げていこう。その第1歩を踏み出せた、と思えた年になったのである。


米ツアーで得た自信が日本ツアーで形になった

 この自信は、日本ツアーに戻った直後に形になった。日本での4試合目になった『アコムインターナショナル』(8月11〜14日。セベ・バレステロスGC。茨城県)で優勝することができたのだ。

 この試合は各ホールのスコアをポイントにして得点を争うステーブルフォード方式で行われた。ボクは3日目を終わって首位に5ポイント差の2位に浮上。最終日は7バーディ・1ボギーで13ポイントを稼いだ。通算41ポイントで、2位の河村雅之選手に6ポイント差の逆転優勝を飾ることができた。92年11月の『ラークカップ』以来、2シーズンぶりの優勝で、ツアー通算22勝目となった。38歳と3カ月だった。
 勝因はふたつある。

 ひとつは開催コースのセベ・バレステロスGCとの相性のよさ。92年3月の『インペリアル』もここで優勝している。池が随所に絡んでくるむずかしさがあるが、ボクはそういうタイプのコースとの相性がよかった。狙いどころが絞られるほうが集中できるのかもしれなかった。

 もうひとつはショットが絶好調だったことだ。

 練習日から、ドライバーショットが曲がる気がしなかった。距離が長い米ツアーのコースだが、飛ばすだけではスコアはつくれない。きちんとよいポジションにコントロールできないとバーディチャンスをつくることができないからだ。そういう環境でプレーを続けたことで、打球のコントロール力が磨かれていった。そんな気がしていた時期だった。

 ちなみにこの年の米ツアーでのドライビングディタンス(平均飛距離)は261・1ヤードで97位。ほめられた数字ではなかったが、翌年には270・8ヤード、34位にまで上がった。飛距離は上り調子にあったんだ。それだけでなく、ショット全体のイメージがとてもよくつかめていた時期だった。

 ボクの弾道を見て「ドライバーショットがすごいね。打球に真っすぐなスピンがかかってきれいに、鋭く飛んでいく」といってくれたのは大会関係者だった。また、一緒にまわった若手からは「直道さんの打球に見とれてしまいました。アメリカにいくとそういうショットが打てるようになるんですか?」ともいわれた。お世辞半分にしてもうれしかった。がむしゃらさだけが武器、といわれてきたこれまでにはない反応だったからだ。

 その点では「自分のゴルフ技術を確立したい」という目標に近づけているのかもしれない、とも思った。

 その後もゴルフの調子は悪くなかった。その後に出場した13試合でベスト10以内が6回。しかもそのうちの5回は4位以内だった。

 でも優勝はできなかった。チャンスはあったのにモノにできなかったんだ。

『フィリップモリス』(10月27日〜30日。ABCGC。兵庫県)は前年までの『ラークカップ』の大会名称が変更になった試合で、92年は優勝、93年も1打差の2位に入ってきた。この94年も最終日は逆転可能な位置からのスタートだったが、ブライアン・ワッツ選手に1打差をつけられて2年連続の2位に終わった。

 もっと悔しかったのは『ゴルフ日本シリーズ』(12月1日〜4日。読売GメンバーC。兵庫県)だった。88年から3勝している得意な試合で、3日目までは首位を譲らなかった。だが、肝心な最終日に74をたたいてしまい、佐々木久行選手に1打差で敗れたのだ。

 得意コースで勝つチャンスを1打差で逃してしまう。2試合とも「自分らしくない負け方だな」と思った。「一歩ずつ前に進む」ことをモットーにしてきたのに、こういう負け方を繰り返すことはあり得ない感じがしたが、激しいショックは受けていなかった気がする。心のどこかに「翌年はまた米ツアーでのチャレンジ」を意識していたからかもしれない。

 といっても「米ツアーで自分のゴルフを磨けば、今回負けたぶんも取り返せる」という安直な計算をしていたわけではない。負けたことは素直に悔しかった。ファンに優勝を見せられないことも申し訳なかった。それでも以前のような敗戦ショックは受けなかった。もう38歳になっていて、年を取ったぶんだけ感情の波が少なくなってきたのだろうか、と思ったこともあった。

 結局、原因はわからなかったが、それでも1勝はしたし、18試合で賞金ランクは4位に入れた。それほど悪い成績ではなかったと思えた。オフも勝てなかった原因を考えている暇もないままに、また新しいシーズンの準備に取り掛からなければならなかった。


シード権は獲得したがさらなる上位を目指したい

 翌95年も1月から米ツアーで戦いがスタートした。

 初戦は前年と同じ『ハワイアンオープン』(1月15日終了)だった。42位タイで終わったが、第2戦は2週間後の『ノーザン・テレコムオープン』(1月22日終了)で6位タイに入れた。

 さらに翌週の『フェニックス・オープン』(1月29日終了)も7位タイ。2週連続ベストテンは初めてだった。

 第4戦の『ビュイック招待』(2月12日終了)は予選落ちを喫したが、『ドラール・ライダーオープン』(3月5日終了)は17位タイ。その後2試合は予選落ちとなったが、次の『TPC』(3月26日終了)は大好きな試合。この年も8位タイと健闘することができた。その翌週の『フリーポート・マクモラン』(4月2日終了)でも15位タイに入れた。

 この後、日本に戻って前の年と同じように『つるやオープン』(4月13〜16日。コースは前年同)から『中日クラウンズ』(4月27日〜30日。コースは前年同)までの3試合に出場した。

 その後、米ツアーに戻り『バイロン・ネルソンクラシック』(5月14日終了)は16位タイ。調子は上々で、日本での3試合(43位タイ、48位タイ、30位タイ)よりも順位が上がる感じがあった。

 結局、この年の米ツアーでは、それまで最多の20試合に出場した。そのうち13試合で予選を通過。通過率は65パーセントながら、トップテンは4試合。25位以内も8試合にのぼったのだ。

 獲得賞金額は29万ドル。賞金ランクは66位だった。もちろんシード権も獲得した。

 まだ米ツアーのトップ選手の仲間入りができたわけではなかったが、これまでよりも明らかによい成績を出せるようになっていた。日本ツアーに比べれば予選落ちは多いが、それよりも大事なことはさらに上位に入れるゴルフを身につけることだ、とファイトを燃やした。

 そのためになにをすればよいか。ボクは考えついたことをあれこれと試していった。

 ひとつはスイングや練習方法の研究。米ツアーのドライビングレンジでは、ほかの選手の練習を頻繁に見て歩いた。だれがどういうスイングをしているのか。打っているのはどんな球筋か。そのためにどのような練習をするのか。そういうことを観察した。

 また、いろいろなティーチングプロの教えも受けた。どんなことを教えてもらえるのか。それは自分にとって役に立つものなのか。それを体験するためにあちこちに出かけた。

 そうしたことが少しずつ、自分のゴルフの血になり肉になっていく。そういう感覚を得られることは楽しかった。

 だが、そうした経験と実際のトーナメントの成績が完全にリンクするとはかぎらない。学んだものがいつ、どういうふうに役立つのかは、未知数だった。この後の米ツアーのチャレンジは、その成果を実らせるために、長くて苦しい戦いが続くことになっていった。(次号に続く)





さらに上位に入るためにいろいろ試してみた。ほかの選手のスイングや球筋、練習法を観察したり、いろいろなティーチングプロの教えも受けた。そうしたことが、自分のゴルフの血になり肉になっていく。その感覚は楽しかった。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。2014年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。

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