連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

3兄弟の対決を制して手に入れた初の「日本プロ」

2016/1/1 21:00

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初戦から優勝した99年メジャーで初の兄弟対決



 1999年。ボクは自分にとっての国内初戦「つるやオープン」で通算26勝目を挙げることができた。初日から単独トップを守りとおした完全優勝だった。

 その後も好調が続いた。次の「キリンオープン」は3位タイ。翌週の「中日クラウンズ」も2位だった。

「中日クラウンズ」は歴史の長い春のビッグイベント。初日は1打差の2位タイ。2日目の66で単独トップに立ち、3日目も68で首位を2打差で守った。最終日も68を出したが、2位からスタートした25歳の今野康晴選手が65をたたき出し、逆転されてしまった。今野選手は3日目にも65をマーク。若さの勢いを見せつけられた敗戦だった。

「イキのいい若手がたくさん出てきている。これからは彼らの時代になるかもしれない」

 そんなことを考えたが、もちろん主役の座を譲るつもりはなかった。逆に「まだまだ負けないぞ!」とファイトが沸いてきた。

 次の試合は2週間後の「日本プロゴルフ選手権」。この年最初の国内メジャー戦だ。

 開催コースは石川県の「GCツインフィールズ」。7136ヤードのパー72。距離があってラフも深い。そのラフに打ち込むとグリーンオンが絶望的に思えてくる状況に直面する。また大きなグリーンには起伏が多く、ピン位置も厳しい。3パットのリスクが高い、難しい設定だった。そのコースで初日70、2日目71。ボクは2日目を終わって通算3アンダーでトップに立った。好調さがキープできていたのだ。

 だが、3日目にトップの座から滑り落ちた。初めてのオーバーパー、73をたたいたためだった。18ホールで費やしたパット数は33。通算2アンダーに後退した。それでも順位は2位タイだったが、首位との打数は4打に開いていた。大きなリードをとった単独トップは次兄ジェットだった。この日は66のビッグスコアを出していた。驚いたのはその内容だ。18ホールでチップインを5回もやったというのだ。それを生かしての1イーグル、5バーディ(1ボギー)だったという。

 さすがジェット、という感じだった。体格も体力もスポーツの才能にも恵まれていたジェットは、派手なプレーが似合うプレーヤーだったからだ。また、この日は長兄ジャンボも通算1アンダー、5位タイまで浮上してきた。ボクとは1打差だ。ジャンボは「日本プロ」で過去6勝を挙げていた。得意な試合だから、最終日も必ず伸ばしてくるに違いない。そう覚悟した。

 兄弟でも、コースに出たら優勝を争うライバルだ。先を行くジェットにはすんなり白旗を掲げるつもりはないし、追ってくるジャンボにも簡単に抜かれるわけにはいかない。兄貴たちを抑えて勝つことをボクは考えた。まずはジェットにつけられた4打の大差をひっくり返さなければならない。そのためには「思い切った、攻撃的なプレーをしよう」と思った。普通にプレーしていたのでは逆転は望めない。ミスすることを恐れないで戦おう、と腹をくくった。


最終日、3兄弟は最終3組に分かれた

 最終日は最終組のひとつ前でのプレーになった。組み合わせはメジャーを意識した2人1組のツーサム。ボクの前はジャンボと伊沢利光選手、ボクは細川和彦選手と一緒で、最終組はジェットと高橋勝成選手。3人が別々の組に分かれていた。同じ組で回るより、このほうが戦いやすい。

「負けるものか」と思っても、やはり相手は兄弟だ。直接殴り合うような対決をするよりも組が分かれたほうが気分的にはやりやすかった。それで気が楽になったのか、攻撃的なプレーをするチャンスがスタート直後にきた。1番ホールは573ヤードのパー5。ボクは3番ウッドで2オンに成功。ピンまで5メートルにつけた。

 その2打目は「刻んでいく」攻め方がノーマルだったと思う。だが、ボクの10ヤードほどうしろから打った細川選手が2オンさせたのを見て「刻むわけにはいかない」とチャレンジ。5メートルまで寄ったのはラッキーだった。そして、イーグルパットが入ったことを目撃した後続組のジェットに、プレッシャーをかけることができたのも幸運だった。ジェットは同じ1番をボギー発進。その後もスコアを崩して3オーバーの39。ボクは4アンダーの32で回った。前半終了時点で、ボクはトップに立ったのだ。ジェットには3打差をつけていた。前半を35で回ったジャンボにも4打差がついていた。

 こういう展開に持ち込めた一因は、ボクに余裕があったことだ。難しいピン位置を楽しむ気持ちの余裕があったことをよく覚えている。米ツアーで苦労してきた経験からの余裕だったと思う。後半もリードを保ってプレーでき、最終18番はボギーでも勝てる状況だった。ここはすごく難しいパー4で、ダボだけはたたかないことを考えた。いかにボギーを確保するか。それに集中して、そのとおりのボギーで勝ったことも、よく覚えている。

 通算27勝目。43歳の誕生日を迎える2日前のことだった。そして、初めての「日本プロゴルフ選手権」のタイトルを獲得できたのである。

 ジャンボのプロ初優勝は1971年の「日本プロ」だった。青木功さんのメジャー初Vが73年の「日本プロ」。中嶋常幸選手も初メジャーは「日本プロ」で77年だった。AONが早々にこの大会に勝ってきたのとは対照的に、ボクはプロ入りから20年以上もかかってようやくこの大会に勝てた。

 選手と大会というものには不思議な縁がある。特定の試合にだけ強い選手がいれば、たくさん勝っているのにどうしても勝てない試合というものもある。ボクにとって「日本プロ」は「縁がないかもしれない」という試合だったわけだが、ようやく勝つことができたのは、いかにも不器用な自分らしいと思った。

 もう一つ、この試合では別の快挙が達成できた。2位は2打差でジャンボ。単独3位はさらに1打差でジェット。つまり、3兄弟でトップ3を独占したのだ。
「夢は3兄弟で優勝争いをしてワン・ツー・スリーでフィニッシュすること」

 ボクやジェットを育てながら、ジャンボはよくこの話をしていた。それがいつしか3人の夢にもなっていった。その夢を「日本プロ」という国内最古の試合、しかもメジャーな試合で達成できた。3人が長く戦い続けてきた中で初めてのことで、これ以降もなかった。

 もちろん、負けた兄弟の立場を思えば、胸の中には苦さもこみあげてくる。そのことはボク自身が体験済みだった。たとえば1989年の「ジュンクラシック」。ボクはジェットとのプレーオフに敗れている。ボクが33歳のときだ。どうにも集中できない感覚でプレーしたことは忘れられない。そういう経験があるから、手放しでは喜べない面もあった。ただ40歳を過ぎて、以前よりは感情をコントロールできるようになっていた。兄弟が同じフィールドで勝負師になった宿命を、受け入れられるようになっていたのだろう。

 この後は再び米ツアーへ戻り、合間に日本ツアーに出てから「全英オープン」、米ツアーと転戦が続いた。結局、この年の米ツアーは15試合に出場。最高成績は相性のいい「TPC」の10位タイで1桁フィニッシュは逃したが、予選落ちはわずかに2試合。もっとも安定した成績を残せた年になった。賞金ランク128位ながら、翌年のシード権も獲得できた。


北海道滞在作戦で「日本オープン」を狙う

そして、その後の日本ツアーに腰を落ち着けられたのは9月に入ってからだ。最初の試合は9月2日からの「日本プロマッチプレー」。北海道のニドムクラシックで行われた。残念ながら2回戦でデビッド・イシイ選手に敗れて、早めの敗退になった。

 翌週はスキップして、次の週、16日からの「全日空オープン」(北海道)に出た。初日は9位タイ。そこから3位タイまで順位を上げて最終日を迎え、70の2アンダー。通算10アンダーまで伸ばしたが、1打及ばずの2位タイでフィニッシュした。優勝は細川選手だった。

 この翌週は再びスキップ。北海道に残って休養とトレーニングに時間を当てた。こうした日程を組んだのは、この翌週の「日本オープン」(9月30日~10月3日)をにらんでのことだった。この年の開催コースは「小樽カントリー倶楽部」(北海道)。石狩湾に面した難しいリンクスコースだ。その攻略のポイントの1つになるのが洋芝対策だった。厳寒期がある北海道はフェアウェイも洋芝を使っている。米ツアーで慣れている、という点でボクには有利だった。しかも9月の5試合は北海道の洋芝での大会が3つもあった。

 ところが、ツアーのスケジュールは5週間のうちの2週目と4週目が本州での開催になっていた。スケジュールどおりに出場すると、洋芝と高麗芝での戦いを交互にやることになる。その結果、芝の感触が混乱してしまう危険性があるのではないか、と考えた。逆にいえば、本州での2試合をスキップすれば「日本オープン」までの5週間を北海道ですごせる。洋芝でのゴルフの感触をキープできるし、より深くなじめるかもしれない。

 もとよりこの年もハードスケジュールだったから、休養は必要だった。それをこのタイミングでとれば、最善の状態で「日本オープン」に臨むことができる。そう考えて、実行したのだった。昨年、自滅と思える戦い方で敗れた「日本一決定戦」だけに、有利な状態でリターンマッチを挑みたい。その願いをかなえる千載一遇のチャンスに思えたものだった。

 この年の「日本オープン」は9月最後の日に始まった。
「小樽カントリー倶楽部」での開催は90年に続いて2回目になる。90年はジャンボ、川岸良兼、青木功といった顔触れが優勝争いを演じたが、勝ったのは中嶋常幸選手だった。ボクは52位タイとまったくいいところがなかった。9年ぶりの小樽CCは前回にも増して難しいコースになっていた。そこをどのように攻めることができるのか。自分の成長を証明するためにも、それが重要だと思った。


最高のショットを打ち続け、初日は単独トップに

 その初日。成長が証明できた。スコアは34・34の68、4アンダー。ただひとりのアンダーパーで2位に4打差をつけてトップに立った。原動力は最高のショットを打ち続けられたことだった。海辺に吹き付け
る小樽の風は、風力計の数値よりもずっと強く感じる。この日は北の風2メートルと発表されていたが、ボールを拭き流す力はそれよりずっと強く感じた。

「今日は風に乗せていこう」

 スタート前にそう思うことができた。すべてのショットを風の力を借りてコントロールしようと考えて、そのとおりにやり通せたのだ。距離が長いホールも多かったが、風に乗せる作戦が成功して、ボギーは1番パー4でのひとつだけ。バーディは5つ奪った。これはいいスコアだと思った。そして全体のスコアが出たときに確信になった。

 この日にプレーした114人の平均スコアは78.188。この年のツアー最悪だった。その中でジャンボは79をたたいて64位タイ。前回のこのコースを制覇した中嶋選手は84という信じられない大たたきをしていた。第1ラウンドを終わった時点で、ボクが大きなアドバンテージをとったことは間違いなかった。だが、まだ72ホールは4分の3が残っていた。
「このままいくとはかぎらない。絶対に油断はしない」

 第1ラウンド後、自分を戒めるようにそうコメントしたが、事態はそのとおりに進んでいった。大会をリードし続けたのに、大事なところで大逆転を食らう展開が待ち構えていたのである。

(次号に続く)







難しいピン位置を楽しむ気持ちの余裕があった。米ツアーの経験があったからだと思う。ボクはジャンボ、ジェットとの優勝争いを制し、初の「日本プロゴルフ選手権」タイトルを手に入れ夢だった3兄弟でのワン・ツー・スリーフィニッシュも実現した。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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