連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

歴史に残る死闘、1999年「日本オープン」

2016/2/1 21:00

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難しいセッティングに悪天候。日に日に難度は増した



 1999年の「日本オープン」は過酷な戦いになった。

 開催コースは「小樽カントリー倶楽部」(北海道)。初日、7200ヤード・パー72の18ホールをプレーした112人の平均スコアは78.188という高い数字となった。その中で、ボクはただ一人のアンダーパー。それも4アンダーをマークして4打差の単独トップに立ち、絶好のスタートが切れた。だが油断はしていなかった。前の年の「日本オープン」(「大洗ゴルフ倶楽部」茨城県)の記憶がまだ生々しく残っていたからだ。最終日をトップでスタートしながら、自滅するように敗れた。

「あの二の舞だけはできない。一歩ずつでも前に進むのが自分のスタイル。今回はよいプレーで」

 日本オープンだから、すんなりと72ホールが終わるとは思えない。山あり谷ありの4日間になるはずである。あとは悪いときをいかに耐えるか。そこにかかっている。そして、そういう我慢強さには自信もあった。

 案の定、第2ラウンドのスコアは、大きなリードを奪えた初日とは真逆になった。先にきたのは4番パー3のバーディだったが、その後は3ボギー、1ダブルボギー。76の4オーバーで、通算ではイーブンパーまで後退。前日の貯金を使い果たしてしまった。それでも単独トップは守れた。この日、73で回って2位に浮上してきた湯原信光選手との差も3打あった。

 こういう結果になったのは、この日、難度がさらに上がったからだ。風が強くなり、吹きさらされたグリーンも硬さを増した。打球は風にもてあそばれ、グリーン上では制御不能になる。その結果、平均スコアは79.144と初日を上回った。予選通過ラインは通算13オーバーまで後退した。

 当時の「日本オープン」は、コースを徹底的に難しくする傾向が見られた。それでも13オーバーという数字は記憶にない。ボクはイーブンパーのゴルフができていたわけだけど、この数字を知って、これまでで最も難しい大会になっていたことを認識した。ただ、「難しいコース」はボクには悪いことばかりではなかった。ボクには米ツアーで鍛えてきた難ホールへの対応力がある。それが単独トップでの予選通過につながっていたはずだ。集中することもできていた。いかにして難しいホールでパーを拾っていくか。そのことに没頭していたら、他の選手のスコアの動きが気にならなくなっていた。

 そうして迎えた3日目はさらなる難敵が加わった。風と雨に見舞われることになったのだ。

「小樽カントリー倶楽部」は石狩湾に面したシーサイドリンクス。そこに吹きつける雨と風には手加減というものがない。最大瞬間風速は15メートルほどになり、歩くのもつらくなる。アゲンストになった長いパー4は2オンが不可能になったように感じられた。午前中は40を叩いた。ボギーは4つで、全部2パット。寄せワンが獲れなかった。グリーンを外すとボギーにしてしまう、という粘りのないプレーになったのは大いなる反省点だった。まったく自分らしくない。その影響か、バーディはゼロだった。

 だが後半は10、11番と連続バーディで発進できた。しかし15番、457ヤードのパー4で3オン3パットをやってしまった。痛恨のダボで連続バーディをフイにしたのだ。粘りを見せて17番225ヤードのパー3ではこの日3つ目のバーディを奪った。だが、それもまた18番447ヤード・パー4のボギーで帳消しにしてしまった。

 結局、午前中の4オーバーがそのままこの日のスコアになり、3日間の通算スコアも4オーバーになった。それでもまだ単独トップで、2位の湯原信光選手とは2打差。単独3位は尾崎建夫、次兄ジェットだ。この日のジェットは2オーバーの74。通算7オーバー。前日5打差の4位から3打差へと、ジワリと詰め寄られた。すごかったのは長兄ジャンボだ。3日目のスタートは43位タイで11オーバー。そこから18ホールを3バーディ、ノーボギーの69で回ってきた。第3ラウンドではただ一人のアンダーパーだった。通算8オーバーは4打差の4位タイだ。この日、ジャンボのパット数は27。寄せワンでパーを拾ったところが6ホールもあった。これがボクとの大きな違いだった。

 通常のコースなら4打差はそれなりに余裕をもてるが、このときの「日本オープン」の設定では、ないものと思わなければいけない。とくに日本最強のジャンボに粘りが生まれてきたことを考えると、なおさらだった。気がつくと尾崎家の3兄弟が上位に顔をそろえての最終日になっていた。苦しくもこの年5月の「日本プロ選手権」以来。コースは違うが同じメジャーの日本タイトル。あのときは先行するジェットをボクが逆転した。今回はどうなるだろうか。もちろんボクは、自分が逃げ切ることしか考えられなかった。

 ちなみにジャンボは、94年までに5回も「日本オープン」に勝っている。ジェットは「日本プロ」は2勝しているが、このタイトルはもっていない。もちろんボクにとっても初優勝になる大事な試合だ。


この「日本オープン」に勝てばグランドスラマーになれる

 それぞれが頂点を目指して坂を登っていくのが試合で戦うプロゴルファー。メジャーの優勝は、とりわけ高いピークである。そこに向かって必死のクライミングをしていくと、競い合う位置に兄たちがいる。この年の国内メジャーはそういう展開が続いていた。競う相手がだれであるか。どこにいるかを確認するのがボクの戦い方だ。だが、必死で岩にしがみついているときは、相手が兄弟であることを忘れる瞬間がある。そういうときは大概がピンチのとき。「小樽カントリー倶楽部」での最終日もそういう試合になりそうだった。

 実際、逆転勝ちした「日本プロ」のときよりも、気持ちの余裕はなかった。

「なんとしてもこの『日本オープン』に勝ちたい」

 そういう気持ちがとても強くなっていたためかもしれない。「日本オープン」に勝てば4つ目の日本タイトル獲得。国内グランドスラマーになれる。そのことは、3つ目の日本タイトルが手に入った5月の「日本プロ」優勝のときからわかっていた。だがグランドスラムはあまり意識していなかった。「4大大会制覇」は長期間の積み重ねの結果だ。たくさん優勝できれば、いつしか4つの日本タイトルがそろってくる。そういうことにすぎない。つまり、グランドスラマーには自然になれるものだと考えてきた。

 ボクは「日本で一番になる」と決めてプロになった。目指したのは一つでも多く勝つこと。そのための1日ずつ、1打ずつに全力を尽くす。そうして一歩ずつ前に進むことで、通算の勝利数はいつの間にか25を超えた。そして、終身シード権という特別な栄誉を手にすることもできた。

 試合の出場権とは、こういうものだということができる。

「お客さんがあなたのプレーを待っています。だから試合に出ていいですよ」

 試合に出られる選手の数は限られている。その中で出場を終生保証されるのは、プロ冥利に尽きる。長年のがんばりへのごほうび的な意味が含まれてはいても、「お客さんに望まれている」ことも事実だと思う。例えばAONが出場する試合ではつねに大ギャラリーがつく。そういう選手になれれば「日本で一番になる」の志は果たされたといっていい。多くのギャラリーからの支持に「日本オープン」の優勝がどれだけ関係するかはわからない。仮に「日本」タイトルがゼロでも、ツアーの他の試合で何十勝も挙げられたら、そのほうが選手としては強い。ボクはそういうふうに考えてきた。

 だからこの試合中に「日本オープンには絶対に勝ちたいですか?」と聞かれたときにボクはこう答えている。

「そうは思わない。『日本オープン』がボクというレストランのメニューから欠けていても、その分をカバーできるほかの料理をボクはもっているから」

 だが人の心の模様はクルクルと変わるものだ。そういってきたにもかかわらず、ボクは「自分がリードしている日本オープン」に、なんとしても勝ちたいと考えるようになっていた。その心変わりの原因はわからなかった。前年のリベンジへのこだわりか。「日本オープン」というブランドに惑わされたのか。年齢的に最後になるかもしれないチャンスを逃したくない、という焦りなのか。それらが絡み合っていたのか。自分でも断定はできなかった。

 そんなふうに気持ちが揺れた状態で一夜が過ぎた。そしてボクは、運命の最終日を迎えることになった。


最終日、尾崎兄弟が最後の2組に集結

 最終日も天候はよくなかった。重苦しく雲が立ち込めた空からは、間断なく冷たい雨が降ってきていた。決勝ラウンドが2サムになるのは例年のことで、最終組はボクと湯原選手だった。1組前は長兄ジャンボと次兄ジェット。尾崎兄弟が最後の2組に集結していた。そしてその前の組には若手の細川和彦選手(4打差)と、その後米ツアーで大活躍する韓国の崔京周選手(6打差)がいた。最終組のスタート時間は11時50分。ほぼ正午だ。このころになると風はますます強くなり「大風」といってもいい中でのスタートになった。

 1番は453ヤードのパー4。かなりタフな長いパー4だ。ボクは2オンを逃し、3打目を1メートル20センチに寄せた。次を入れればパーだ。この日のゲームプランは「毎ホール、しっかりパーを獲って他を寄せつけない」こと。リードを保って勝つ作戦だった。1番ホールはそのとおりに運べた。そう思ったのだが、予想もしていないことが起きた。この短いパットをショートしたのだ。

「外してボギーになる」ことはありえる。だがショートはありえなかった。

「ここで出たか!」

 その場から動けなくなるような強烈なショックを受けた。

「大事なパットで手が動かなくなる」症状は、ボクの最大のウイークポイント。それがいきなり出たのだ。「手が動かなくなった」と思ったら、途端にゴルフをすることが苦しくなって、パーが獲れなくなった。23年もプロとして戦ってきた自分のゲームプランが、わずか1発で吹き飛んでしまった。


前半で6ボギーをたたきトップの座を奪われた

1番から3番、そして5番、7、8番。9ホール中6ホールでボギーを叩き、すべて2パットだった。もちろんバーディはなし。リードを守りたいときに粘れなくなったことは苦しかった。前半は42。通算10オーバーまで後退し、9ホール終了時点でジェットとジャンボとは1打差になった。そしてトップの座は7オーバーの湯原選手に奪われていた。彼は9ホールを2バーディ、3ボギー。悪天候の中でのナイスプレーで首位に立った。

「終わった」

 ボクは諦めてそうつぶやいていた。本心からそう思ったんだ。冷たく重い空と風に大きく揺れる木々。気分は落ちるところまで落ち込んだ。ただ、最後の9ホールのプレーを始めるまでに、少しの時間があった。その間に心が変わり始めた。弱気になっていた自分に「まだ終わっていないじゃないか」と、もう一人の自分が言葉をかけられる状態になれていた。

「残り9ホールはチャレンジャーだ。プレッシャーを感じている場面じゃないぞ」

 こう言葉をかけると、気分が変わった。逃げ回ろうとしていた前半とは違う、前向きな気分になれた。すると後半はゴルフの内容がガラリと変わった。奇跡の逆転劇がここから始まった。

(次号に続く)







ただでさえタフなセッティングに加え、冷たく強い風、吹きさらされて硬さを増すグリーン降りだした雨。日に日に平均スコアが高くなる4日間。ボクは「なんとしてもこの『日本オープン』に勝ちたい」そういう気持ちがとても強くなっていた。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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