連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

グランドスラマー、そして2度目の賞金王へ

2016/3/1 21:00

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最後の9ホールを前に「攻める」と腹を据えた



 2打差の単独首位でスタートしながら、前半9ホールで6つものボギーを叩いてバーディはゼロ。6オーバーで首位から陥落した。1999年の「日本オープン」最終日は、最悪の展開になってしまった。

 このままでは、自滅するように敗れた前年と同じになってしまう。そんな悪い予感に、ラウンド中ずっとつきまとわれていたが、後半のプレーを始めるまでのわずかな時間に、自分の気持ちを立て直すことができた。

「最後の9ホールは、チャレンジャーになって攻めていこう」

 そんなふうに腹を据えることができた。

 首位を明け渡した湯原信光選手との差は3打。9ホールで追いつける自信はなかったが、「絶対に追いつけない」とも思わなかった。やってダメなら仕方がない。引き離された立場なのだから、チャレンジに失敗しても失うものはない。そう考えることができた。こういうときに陥りがちな「少しでも早く追いつかなくては」という焦りも感じなかった。1ホールずつ、しっかりプレーしよう。一歩ずつ、やっていこう。そんなふうに自分に語りかけることができていた。

 そうして迎えた10番は570ヤード、パー5。後半の最初がロングホールだったことは幸いだった。前半に3つしか獲れなかったパーの2つはパー5だったからだ。残りのひとつはパー3。パー4は5ホールすべてをボギーにしていた。そしてこのパー5は、3オン2パットのパー。湯原選手もパーで3打差は変わらなかったが、ボクは落ち着きを取り戻していた。

 次の11番は422ヤード、パー4。ここでまたボギーがきた。湯原選手はここもパー。差は4打に広がったが、ショックは受けなかった。自分のゴルフをきちんとやり通すことのほうに、気持ちが向いていたからだと思う。

 12番パー3は1パットのパー。そして13番でやっと、この日初めてパー4でパーが獲れた。まるでアマチュア時代に戻ったようだが、そのくらいむずかしいコンディションだった。460ヤードと長いホールでも、2オン2パットでしっかり上がれた。落ち着きがさらに増し、次からはボギーを叩くイメージがなくなって、16番まではパーを続けることができた。

 気がつくと、ボクは再び単独首位に立っていた。通算スコアは11オーバー。湯原選手は12番からの5ホールで5オーバーし、通算12オーバーになっていた。ジャンボもジェットもバーディが獲れないようで、スコアを伸ばせていなかった。

 17番は225ヤードのパー3。単独首位といってもリードは1打だ。それに加えて難しい雨と風。「ボギーは叩きたくない。なんとかパーを拾おう」と考えたくなるところだが、ボクは攻めた。「土砂降りだけど、気にしないで攻めよう」と3番アイアンでフルスイングした。雨を切り裂くように飛んだボールはピン手前に乗った。2ピンくらい。ナイスオンだ。

 20歳でプロになってから23年。これほど集中できたことはなかったかもしれない。

「打つときにギャラリーが動いたらしいけど、まったく気づかなかった」という話があるが、まさしくそういう状態でプレーができていたに違いない。前向きな気持ちが3番アイアンというクラブ選択にもつながった。

 前年の大会でのことだ。舞台の大洗ゴルフ倶楽部にも終盤に長いパー3があった。16番、245ヤードだ。ボクは大きめの3番ウッドでコントロールショットして乗せた。その攻め方を目撃したある人が、こういってくれた。

「さすがだね。ああいうテクニックがあるから、16番は4日ともパーでいけたんだね」

 ホメてもらったのだが、ボクは自分のプレーに満足はしていなかった。

「短いクラブでフルスイングして、攻めてバーディをもぎ獲りたい」という気持ちもあったからだ。

 冷静にグリーン中央を狙ってパーを続けていく。スコアを作るにはそのほうがよいことはわかっている。プロになる前からボクはそういうゴルフをやってきた。それが消化不良な気持ちにつながってきたのは、米ツアーで戦ってきた経験のせいかもしれない。米ツアーの選手たちも無理な攻め方はしない。ただ、ここぞというときにはシンプルに攻めてくる。強豪ほどそういうプレーでバーディを獲っていく。確率を優先した安全策。それをやりすぎてしまうことで壁をつくっているのではないか。いつの間にか、そんな気持ちが強くなっていたのだ。

 だが、貫いてきたスタイルを変えることは、簡単にはできない。予選通過もできないくらい状態が悪くなれば変えるだろうが、それはヤケッパチな選択だ。スコアや順位がよくなったときには、同じことはできないはずである。優勝がかかった1打の場面で、失敗を恐れずに前向きになる。そしてシンプルにビシッと攻める。そんなプレーがこの17番でできたことは、勝ち負けとは別の喜びだった。そして、そういうことがあった後は、よい連鎖が起きるものである。このときもそうだった。


ピンまで6メートル何百回も練習したラインが残った

 グリーンに上がると、ピンまでは6メートルくらいあった。そのラインを見た瞬間に驚いた。「ウチの練習グリーンとまったく同じラインだ!」

 自宅には小さなグリーンを作ってある。思い立ったらすぐに練習できるようにするためだ。そのグリーン面に、1カップ切れる上りのスライスラインがある。それとそっくりなラインが残っている。そう感じたのだ。

 運命的な巡り合わせだった。何百回も練習してきたラインと同じなら、どんな場面であってもミスはしない。必ず入る自信があった。そして、そのイメージでストロークすると、思いどおりに転がって、カップインした。バーディが来た。この日初めてのバーディが、平均スコア3・5を超えていたであろう最終日・大詰めのパー3で獲れた。しかも風雨をついてのティショットを3番アイアンで、である。

 ボクは「これで決まった」と勝ちを確信した。このホールでは湯原選手もパーだったが、リードは2打に広がった。残すは18番ホール。湯原選手もさすがで、2回の見事なショットでバーディチャンスにつけた。ボクがボギーを打てばプレーオフ。そういうプレッシャーがかかってきたが、結果はふたりともパー。2打差で初めての「日本オープン」のタイトルを手に入れた。この年の3勝目。通算28勝目だった。


一歩ずつの積み重ねで得たグランドスラム

 通算10オーバーでの優勝は、73年のツアー制度開始以来の最多スコア。もっとも多いオーバーパーでの優勝だった。それだけコースが難しかったわけだ。最終日は大木が倒れるほどの風雨も重なった。そういう

 ハードな条件下で勝てたことは、いかにも自分らしい、という気持ちにもなった。初優勝は開幕戦。肌寒い3月だった。その後も真夏の猛暑の試合などで、若いころのボクは勝ち星を伸ばした。そうしてひとつずつ重ねてきた勝歴に「日本オープン」が加わって、ボクの手元には4つの「日本」タイトルが揃い、1年前には思ってもいなかった「グランドスラマー」になれた。

 一歩ずつ、の重みを改めて感じた。一歩ずつなのにたくさんのものが残せたのは、長く戦い続けてこられたおかげでもある。丈夫なカラダを与えてくれた両親と、支え続けてくれた妻に心から感謝した。

 それまで獲れなかった「日本プロ」と「日本オープン」に勝てたこの年。ボクの前にはもうひとつの大きなチャンスが巡ってきた。2度目の賞金王だ。「日本オープン」の翌週から「日本シリーズ」の前までの国内戦は6試合に出た。優勝どころかベスト3にも入れなかった。日ごとに増す疲労感が辛かった。それでも「太平洋マスターズ」「ダンロップフェニックス」「カシオワールド」の3試合は5位、4位タイ、5位タイと踏ん張れた。高額賞金の試合ばかりだっただけに、こうしたフィニッシュは大きかった。年の功というヤツだったかもしれない。その結果、シーズン最後のメジャーとなる「日本シリーズ」は、賞金ランク1位で迎えた。

 1度目の賞金王は91年。その後は米ツアーに挑んできたから「もう一度賞金王を獲りたい」と考えたことはなかった。日米を掛け持ちすることで精いっぱいだった。だが全力プレーを続けると、考えてもいないチャンスが到来することがある。それはゴルフも人生も同じだと思う。そういうチャンスなら逃す手はない。「ここまできたら獲る」と決めて「日本シリーズ」に臨んだ。思い出せば、91年もここでの優勝が賞金王への決め手になった。今回もなにかいいことが起きるのではないかと思ったりもした。


賞金王がかかる最終戦思わぬサプライズが起きた

 だがそううまくはいかなかった。初日は3アンダーの4位タイ。首位とは4打差あったが、よいスタートだ。だが2日目は3オーバーでイーブンパーに落としてしまう。順位は5位タイで首位との差は5打に広がった。首位に立ったのは31歳の伊沢利光選手。2位の3アンダーには、28歳の細川和彦選手がつけた。実力派の若手が元気いっぱいに飛び出していた。

 3日目もこのふたりが伸ばした。伊沢選手は通算8アンダー。細川選手は4アンダー。ボクは1アンダーどまりで5位タイのままだった。そして最終日。細川選手が64の好スコアで逆転優勝をモノにした。これで彼は賞金ランク2位に浮上。首位のボクとの差は858万円あまり。賞金王の行方は翌週の最終戦、「沖縄オープン」に持ち越しとなった。

 その「沖縄オープン」はキツい試合になった。この年も日米ツアーを両立してきた43歳のボクは、体力的な限界を迎えていた。「沖縄オープン」に出れば、海外遠征も含めて8週連続のトーナメント出場になる。カラダは試合ができる状態ではなかったが、賞金王レースから降りるわけにもいかない。現地に飛んで体調を整えることにした。そんな状態だったから、出場しても上位進出は望めなかった。必然的に賞金王の行方は細川選手へと向かっていった。細川選手が優勝なら賞金王も彼が手にする。単独2位ならボクの賞金しだいで賞金王が決まる。2位タイ以下ではボクが逃げ切ることになる。

 結局、出場を決めたのはギリギリで、試合初日の朝になった。なんとかプレーできるところまでもっていくことはできた。だがプレーを始めると、今度はグリーン上で悩まされた。舞台の大京カントリークラブの高麗グリーンには独特の芝目の強さがあった。2メートル半から3パットしてダボを叩くなどして、1オーバーでのホールアウトになった。順位は60位。覚悟していたとはいえ、惨憺たる結果になってしまった。

 それに対して細川選手は2アンダー。首位から3打差の11位タイにつけてきた。明日以降は優勝争いに加わっていくだろう、という展開になった。

 明けて2日目。ボクは必死のプレーを続けた。11番パー5では2打目をOBしてダブルボギーを叩いた。だがその後に3つのバーディで巻き返してこの日は3アンダー。通算2アンダー、32位タイで予選を通過できた。すると、思わぬことが起きた。細川選手はこの日3オーバーで回り、1打足りずに予選落ちを喫したのである。

 まったくゴルフというヤツは予想できないことが次々に起きるものだ、とつくづく思った。こうしてボクは2度目の賞金王を手にすることができたのである。

(次号に続く)







優勝がかかった場面で、失敗を恐れず前向きになれてシンプルに攻めることができた。それは勝負とは別の喜びだ。そして、そういうことができたあとはよい連鎖が起きるものである。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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