連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

還暦を迎える2016年 さらなる一歩へ

2016/4/1 22:00

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2度目の賞金王になった翌年。連続で「日本オープン」に勝てた



 初の賞金王獲得は1991年。そして2度目は1

 1999年。喜びが大きかったのは2度目のほうだった。

91年は賞金王争いを大きく左右する「日本シリーズ」の前日に父が亡くなった。翌日、初日のプレー後に郷里の徳島へ飛んで通夜に臨んだ。そして寝る間もなく翌朝東京へトンボ返り。2日目のプレーに駆けつけた。すると試合では神がかったようなプレーができ、ブッチギリで優勝。そんなふうにバタバタしているうちに「獲れてしまった」という感じの賞金王。35歳だった。

 8年後の99年は43歳になっていて「狙って獲った」感覚が残った。4月の「つるやオープン」で勝ち、翌月の「日本プロ」で2勝目を挙げたときに「賞金王が獲れるかどうか、勝負は秋だな」と思った。そしてその秋に「日本オープン」で勝つことができた。その後、何試合も首位争いをしながら1勝もできなかったのは、詰めの甘さが出た、というしかない。そのせいで賞金王決定が最終戦までズレこんだのも、自分らしい展開だと思った。

 そのあたりは1度目とよく似ていた。だが、大きく違っていたことがあった。「日米、ふたつのツアーを掛け持ちしながら賞金王が獲れた」こと。別物の充実感があった。そして、その原動力になった99年の「日本オープン」(小樽カントリー倶楽部)は、生涯でもっとも印象深い試合になった。

 「日本オープン」には、翌年(鷹之台カンツリー倶楽部)
も優勝することができた。第1ラウンドは川原希選手、田中秀道選手と並んで4アンダーのトップタイ。2日目は3人とも通算3アンダーに後退しながら、まだトップタイに並んでいた。そうして決勝ラウンドに入った3日目の1番ホールでのこと。ボクは4パットしてダボを叩いた。グリーンのカラーからパターで4回打ったので、記録的には3パットになっているが、これには参った。手が動かなかったのだ。

 瞬間的に、1年前の最終日、小樽の1番ホールを思い出した。あのときも手が動かず、1メートル20センチのパットをショートした。そのショックを引きずって、9ホールで6つのボギーを叩いてしまったのだ。悪い予感がした。嫌な気持ちにもなった。だがこのときは立て直せた。暗い顔になったらダメだ、と思って「今日は笑いながらやろう」と開き直れた。

 するとすぐに結果が変わった。2番パー4、3番パー3と続けて6メートルくらいのパットを入れて連続バーディ。ダボを帳消しにできたんだ。

 シリアスな引き締まった表情でカッコよくプレーしたかったんだけど、それは諦めた。ギャラリーとも話したりして、気持ちを内側にこもらせないようにしたことで、悪い流れを変えることができた。

 その後は1バーディ、1ボギーで前半9ホールはパープレー。後半は12番から3連続バーディ。いずれもショットがピンに絡んだ結果だった。15番、233ヤードの長いパー3と18番、478ヤードの長いパー4もボギーにした。それでもこの日は1アンダー。第1ラウンドと同じ通算4アンダーに戻して、単独トップに立てた。

 最終日は2位の田中選手に2打差の単独首位でスタート。くしくも一昨年のチャンピオンである田中選手と、昨年勝者のボクの激突になった。ボクは4番パー5でバーディを獲り、7番パー3でボギー。あとは全部パーで前半を終えた。難しい設定の最終日だから、納得のスコアだった。田中選手の前半は1バーディ、1ボギー、1ダボの2オーバー。普段ならあまり出ないダボが「日本オープン」ではちょっとしたことで出る。そのダボひとつの違いで差は4打へと大きく広がった。この差を守る。そのために、一つひとつパーを獲っていく。それが後半のテーマになった。そして、そのとおりのプレーを続けた。10番、11番、12番とボクはしっかりパーを重ねた。

 だが、予想外のことが起きた。2組前の、台湾の林根基選手が迫ってきたのだ。スタート時のボクとのスコア差は5打もあった。その林選手は5番でボギーを打ちながら、その後の9ホールで5つのバーディを重ねて通算3アンダーまで伸ばしてきた。14番ホールを終わった時点では1打差になっていた。

 「もうひとり、敵が出てきたのか」とも思ったが、不思議と焦らなかった。相手が2組前にいたということもあったが、「相手のことを考えるヒマはない。自分でパーを獲ることに集中しよう。パーをキープしていこう」と思えたからだ。

 だが大きなピンチがその直後にきた。前日ボギーを叩いた15番パー3。1オンを逃し、アプローチも寄せ切れずにパーパットは3〜4メートル残った。ラインも難しく、ボギーになることを完全に覚悟した。ところが、そのパットが入った。ボギーを覚悟してリキみが抜けたのかもしれなかった。さらにいえば、ボギーになることを受け入れられたのは「それでも大丈夫」という気持ちがあったからかもしれない。

 自信があった、とまでは断言できない。プレー中は自信の度合いを計測するような余裕がないからだ。

 ただ、1打1打に気持ちを乗せて打つことはできていた。それを途切れなく続けられるという、満ち足りた感覚は自覚していた。その結果、16番からもパーを重ねていけた。
「久々に腹が据わった状態で、最後の9ホールをプレーできている」

 そういう手ごたえがあった。


2000年。日本とアメリカでシードが獲れた最後の年

 最終18番は長くて難しいパー4。ここをパーで切り抜けることだけが最後の難関だったが、そこで林選手が先にボギーを叩いた。これでボクの負けはなくなった。

 18番はダボを叩かないことだけを考えて、しっかりボギーで上がった。体も心もスタミナ切れしていたが、1打差で2度目の「日本オープン」のタイトルをつかんだ。大会2連覇は史上5人目。それも1900年代最後の年と2000年代最初の年にまたがっていることは、偶然ながら、うれしい記念碑になった。また、この2年間はどちらも4日間トップの完全優勝。8日間連続でトップという記録面でのおまけもついていた。

 これがボクの通算29勝目だ。

 この年の日本での賞金ランクは17位。出場したのは9試合だった。並行して戦っていた米ツアーは18試合でトップ10フィニッシュは1試合。トップ25は5試合。予選落ちは6試合あった。賞金ランクは123位。辛くもシード権を守ることができた。そしてシードを獲れたのはこの年まで。米ツアーでの戦いは、翌2001年で終止符を打つことになった。出場試合数17で前年とほぼ同じだったが、予選落ちは10試合と大幅に増えた。トップ10は1試合あったがトップ25は2試合と大幅減。賞金ランクも154位で、シード権にはまったく届かなかった。


勝つためにすべきプレーが見えた初めての不思議な体験

 シードが獲れなければやめる」は以前から決めていたこと。8年間の戦いで1勝もできなかったことは残念だったが、自分としては十分にやった。「やり切った」と思えていた。これ以上やったら体も精神もボロボロになる。そんなギリギリの状態で戦っていた。限界だったのだ。

 02年からは日本ツアーだけに絞っていこう。春に体を鍛えて以前のような闘志あふれるプレーができるように戻していかないと、すべてがおかしくなる。そんな危機感があったから、このときは迷いなく撤退することができた。

 日本ツアーに専念しはじめた02年は26試合に出場。「サン・クロレラクラシック」の2位タイが最高成績で優勝はなかった。

 久々の優勝が巡ってきたのは03年だ。「ブリヂストンオープン」の最終日に7アンダーを出してトップタイに並んでホールアウト。プレーオフでポール・シーハン選手(オーストラリア)を破って3年ぶりに勝てた。

 このとき47歳。これが通算30勝目。大台に到達できた。切りのいい数字で優勝歴をまとめられたと感じていたが、実際にはこれが最後ではなかった。2シーズン後の05年。4月の「つるやオープン」で31勝目を挙げることができたのだ。2日目にトップタイに立ち、3日目もそれを守り、最終日は通算13アンダーまで伸ばして3打差で勝てたのだ。

 さらに、それだけでは終わらなかった。翌週は春のビッグトーナメントのひとつ、「中日クラウンズ」の開催週。この試合も勝って2週連続優勝を飾れた。最終日は1打差の単独2位でスタート。18ホールを3アンダーで回って通算11アンダーまで伸ばした。スティーブン・コンラン選手(オーストラリア)とトップタイに並び、プレーオフの2ホール目で勝てた。

 このとき、初めての不思議な体験をした。勝つためになすべきプレーが18ホールを通じて明確に見えていた。そんな状態だったからプレッシャーやシビレもあまり感じなかった。その結果、見えていたとおりにプレーすることもできたのだ。若いころは無我夢中でガムシャラにプレーしてきた。それから四半世紀近くが過ぎた。49歳の誕生日を目前に控えて、こんな勝ち方ができたことは、ゴルフの神様からご褒美をもらったような気がする。

 50歳を間近に控えたこのころから、ボクは米シニアの「チャンピオンズツアー」への挑戦に燃えていた。このチャレンジは45歳くらいから意識し始めたが、「もう一度アメリカでやってやる!」という気持ちになっていたのだ。

 チャレンジの1年目は2006年。前年にQスクールを受けて3位に入り、出場権を獲得。50歳の誕生日を過ぎた5月末から参戦した。10月まで戦って、レギュラーツアーに挑んでいたころと同じくらいの15試合に出場できた。だが結果は喜べるものではなかった。トップ10が2回。最高成績は3位ながら上位入賞が少なく、賞金ランクは45位。翌年のシード権(30位以内)を逃してしまった。シニアツアーといえども、米国ではみんなギラギラしていて、厳しい戦いが繰り広げられていた。


まだまだアツく勇ましいアメリカのシニアツアー

 年を取って丸くなっていて、和気あいあいで試合を楽しんでいる。そんなイメージとはまったく逆だった。みんな勇ましかった。ミスをすると若いとき以上に自分に激怒したりする選手がすごく多く、「エーッ?こんな感じなのか」と思った。ビックリしているうちにやられちゃった、という感じだ。コース設定も簡単じゃない。日本のレギュラーツアーより難しいコースもあった。

 でもショックはなかった。あらためて「こっちに帰ってきてよかったな」と思った。厳しさの中には成長の糧がある。まだまだボクは成長したいと願っていたんだ。だからもう一度Qスクールを受け直して、翌年もチャンピオンズツアーにチャレンジした。

 2007年は20試合でトップ10が10回。賞金ランク19位でシード権を獲った。その後、フルタイムでのチャレンジは2011年まで続けた。プレーオフまでいって2位に入ったのが最高成績で、勝てなかったのは残念だったけど、挑んだことで得られたものはここでもすごく大きかった。

 2016年。ボクは60歳になる。誕生日がくる5月には還暦を迎えるけど、これからも一歩ずつ、前に進んでいきたい。そう思って昨年末、59歳でチャンピオンズツアーのQスクールに挑んだ。望外のものを得られることがあれば、切望しても得られないものもある。ゴルフも人生もそれは同じだし、やり直しがきかないのも共通点だ。
違うのは、ゴルフには18ホールという区切りがあるが、人生のチャレンジには区切りはないことだ。だからこそ、何歳になっても前に進みたい。

 一歩ずつ、前に進んでいきたい。









ゴルフも人生もやり直しはきかないがゴルフには18ホールという区切りがある。でも人生には区切りがない。だからこそ、いくつになっても前に進みたい。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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