ゴルフは小技が大事と知り「仕事にしよう」と直感した
プロゴルファーになってから40年近くの歳月が過ぎようとしている。時の流れの速さをしみじみ感じるようになった。
そんなときに「自伝をお願いできませんか?」という依頼がきた。正直にいうと『いまさらなにか語ることがあるだろうか?』と思った。
プロの勲章は成績と賞金の額ではないか。僕はずっとそう考えてきた。いま、そういう記録はインターネットでつぶさに調べられる時代になっている。『それ以外になにかを語れるだろうか?』と思ったのだ。
もちろん、長い間にはいろいろなことがあった。喜び、悲しみ。心のひだにはさまざまな想いがしみ込んでいる。
でもカッコいいことばかりじゃない。
僕が歩いてきたのはイバラの道。自分の道を探しながら、雑木林の中をさまよって、目の前の1歩ずつを歩いてきた。
だが「そういう話こそが、いまの時代には大事です」ともいわれた。
もともと不器用だから、自分のことをうまく話せるかどうか。お読みいただくゴルフファンになにかを感じてもらえて「直道らしい」と思っていただけることを願いつつ、話をさせてもらうことにした。
まずは生い立ちからお話しよう。
僕の故郷は徳島県の南側、高知県に近い宍喰(ししくい)町(現海陽町)だ。海と山が両方ある半農半漁の町で、わが家も農家だった。あとは役所関係の人が少し。商店などは少なかった。
生まれ年は昭和31年(1956年)。終戦の11年後で、日本はまだ豊かじゃなかった。
わが家は米やキュウリを多くつくっていた。あまりお金にならない作物だったようだ。山に栗があった。友だちが川で泳いでいるときに採りに行った。親父が落としたイガグリを持って帰って家の庭でむく。1貫(3.75キロ)240円くらいだったことを覚えている。
農作業も手伝った。
辛かったのはみぞれまじりの豪雨でビニールハウスが破れたときのことだ。小学校4、5年くらいだった。真っ暗ななかで家族が破れ目を押さえている間に親父が縄で補修していく。1時間くらい氷雨のなかで押さえていたら、寒さで手の感覚がなくなった。一番上の姉が「直ちゃん、こういうものは覚えときよ」といったことをよく覚えている。
家も昔の造りだった。五右衛門風呂に井戸水を入れて、新聞紙から薪へと火をつけて風呂を炊く仕事もした。
いま思えば大変なことが多かったけど、当時は普通だと思っていたよね。親が働く姿を見ていたから、自分ができることを手伝うのは当たり前。そう思っていたんだ。そんな暮らしぶりのなかで「生きていくのは大変なんだ」と感じていた。大げさじゃなくて、小学校に入る前、6歳くらいまでに生活していく大変さを実感していたんだ。
それが大きな財産になったと思う。進む道を選び、そのなかでもがくときも大変なことをやれたのは、そのおかげだと感じるからだ。
そんな田舎の生活が、そのあとに少しずつ変わっていった。日本が経済的に豊かになっていった時代とともにね。そうして中学生になったときに、初めてゴルフを知ったんだ。
中学2年生のころ。長兄のジャンボがゴルフクラブをもって帰省して、ボールを打って見せてくれた。ジャンボとは学年にして10違う。
ジャンボがプロになり、関東プロで初優勝したのが1970年。そのころはゴルフを見たことがなかった。いまのようにトーナメント中継は見られなかった。都会では中継があってもチャンネルが少ない田舎では見られなかった。もちろん練習場もない。ジャンボは運動場から稲刈りあとの田んぼに向かって打ってくれた。弾道は迫力があった。でも、それより僕が惹かれたのは、ショートゲームがある、という説明だった。
「飛ばしていったあとは、どうするの?」と聞いたら「最後は穴っぼこに入れるんだ」と教えてくれた。打数の点では小技が大事だ、と知った瞬間に、こう思った。
『ゴルフを仕事にしよう!』
そう直感したんだよ。
直接の理由は『小技があって、それが大事なら勝負できる』と感じたことだった。
ジャンボ、次兄のジェットより、僕は体が小さくてパワーがない。ボールを遠くに飛ばす競技では勝てそうにない。でもビー玉とかメンコとか、細かいもののコントロール性が大事な遊びには絶対の自信があったんだ。
「小技で自分の強みを生かせればジェットに勝てるかもしれない。もしかしたらジャンボともいい勝負ができるかもしれない」
そんなことを直感的に思ったんだ。兄たちはスポーツのスター。そのふたりに勝てれば仕事になる。それならプロになろうと考えたんだね。
そんなひらめきのもとは、幼いころから抱いていたこんな思いだった。
『自分の力で稼いで、家を建てて、家族を養うのが男の生き方』
いまでは大げさで時代がかった言葉かもしれない。でも僕は「ひとり立ちしたい」というモチベーションがすごく高かった。黙々と働き、汗とホコリにまみれた親の背中を見て育ったせいかもしれない。自分も早く一人前になりたい。そういう意識が強かったんだ。
で、そのひとり立ちの方向性は「スポーツしかない」と決めていた。スポーツなら身を立てられると考えていた。
毎日やった素振りは自分の練習の原点
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▲ゴルフをはじめてから毎日やったのが素振り。いま思えば体幹を鍛えバランス力を高めるために最高の効果があった
ほどなく中学を卒業。すぐに東京に出た。正確には千葉だ。ジャンボに「(中学を出たら)ウチに来ないか?」といってもらえたのでジャンボの家に下宿させてもらった。
高校もそこから千葉日大一校へ通わせてもらったけど、あくまでも「ゴルフのプロになるためにきた」という意識は強くもっていた。目指していたのはプロになることで、そのための練習の積み重ねを一歩ずつはじめたんだ。
練習の基本は素振り。そればっかりやっていた。当時のジャンボの家は住宅街にあった。有名な「習志野のホワイトハウス」と呼ばれた豪邸に引っ越す前の家だから、短いクラブでも家の中では振れない。家の前のそれほど広くない道路で素振りをした。朝、学校に行って、午後に帰ってから毎日1、2時間。100~200回は確実に続けた。
道路の上にマットを置き、ついているゴムのティをドライバーで思い切り叩く。だれかが道を通っても恥ずかしいとは思わずに続けていた。
いまのジュニアは環境が違うだろうけど、当時の僕にはボールを打つチャンスは少なかった。車は運転できないから練習場には行けないし、練習場で必要なお金もあまりもっていなかった。
ジャンボは試合や仕事でほとんど家にいなかったので、教わることもなかった。ほとんど自己流の素振りをやっていた。
ラウンドのチャンスもほとんどなかったから、ゴルフ場をまわれるときはうれしかった。
初ラウンドは高校1年の春。まだゴルフに取り組みはじめて数カ月のときだ。
高校の先輩のつてで鎌ヶ谷カントリークラブでプレーさせてもらった。スコアはいまも覚えている。46、48の94回。いいスコアだな、と思った。
同級生にゴルフ好きがいて、一緒に河川敷のコースに行ったことがあった。ドライバーショットを大きくフカして右の土手を越えるOBを打ったりしたなあ。「あんなに遠くの大きな土手を越えるほど曲がるのか」ってビックリしたりしてね。
そんな日々だったけど、高校2年のときには予選を通って日本ジュニア選手権に出られたんだ。1973年だった。霞ヶ関カンツリー倶楽部・東コース(埼玉県)で2日間プレーしてスコアは84、80の164で26位タイ。初ラウンドよりはだいぶ上達していたことになる。
このころの上達が早かったのかどうか。早かったとすれば素振りのおかげだと思う。
クラブはジャンボのお下がりで、僕には硬くて重かった。それでゴムのティを思い切り叩く。当時はボールを強く叩けないと飛ばなかったから、そういう素振りを全力で続けた。
振り方のよしあしは知らないし、わからない。それでも素振りを続けていると「こうやったらどうだろう?」ということを自然に考える。うまく叩ける調整の仕方が身についたと思う。体と頭がつながって、バランスよく使える効果があったかもしれないね。また道路をフェアウェイに見立てて、そこにボールを打ち出すイメージトレーニング的な素振りもやっていた。
だから素振りはいまもよくやっている。僕の練習の原点だ。ボールを打つ時間がなくても素振りはできる。いまの時代、道路でやるのは迷惑だからやめたほうがいい。でも安全を確保してやれば上達の効果は高いと思う。
一人前のプロになる自分を信じて疑わなかった
同時に、このときは同世代のトップクラスとの大差を思い知らされた。
この年に優勝したのは1年上の倉本昌弘選手、マッシーだ。75、73=148回。僕とは16打差だった。ひとつ年下の湯原信光選手、ノブちゃんはこのとき1年生で161回だったけど、翌年は76、67=143回で2位に7打差のぶっちぎり優勝をした。その年、僕は予選を通れずに出場できなかったんだから、ものすごい差だったわけだ。
このころのマッシーやノブちゃんとは、1ラウンドで10打かそれ以上の実力差があった。気が遠くなるような差だともいえる。
でも「かなわない」とは思わなかった。
「いまは負けているけど、がんばって追いつこう」と思ったんだ。
追いつける自信? もちろんあったよ。
正確にいうと自信というより「追いつかなきゃ」という意識のほうが強かった。
マッシーやノブちゃんのゴルフはすでに出来上がっていると思えた。うらやましくもあったけど、うらやんでいても仕方がない。
「ゴルフをやるからには追いつかなきゃ」とか「負けたくない」という気持ちになった。同じ気持ちは3学年上のジェットにももっていたね。一番身近なライバルだったから。
普通に考えれば、強がりになるかもしれない。追いつける保障なんてどこにもないんだから。飛ばすこと、曲げないこと、ショートゲームの巧みさ。どれをとってもその時点でかなうものなんてなかった。でも大きな差を見せつけられても落ち込んだりはしなかった。逆にファイトがわいてチャレンジしていけたんだ。
なぜかな。
たぶん「一人前のプロになって自分の道を切り開く」ことだけを考えていたからだと思う。そうなる自分を信じて少しも疑わなかった。だから「プロの世界でライバルになる選手たちに追いつく」ことに、すべてのエネルギーを注ぎ込めたんだ。
千葉日大一校を出たら研修生になる、という道を選んだのも「追いつく」ためだった。日大のゴルフ部へのお誘いも受けたけど、マッシーやノブちゃんと同じ学校に進んだら追いつくのがむずかしくなる。そう考えて進学しなかったんだ。結果的に正解だったと思う。
そのなかで、初めて具体的な目標ができた。
「20歳でプロテストに合格する」
成人式で故郷に戻ったときに「プロゴルファー」という勲章を持ち帰りたい。研修生になってからは、それに対してファイトを燃やす生活がはじまった。
それはなんとか達成できた。ゴルフをはじめてから5年でプロになれたんだ。そのことにどれくらいの価値があるのかはわからない。テストのやり方などがいまとはまったく違う時代だったしね。
でも、その過程でいろいろな経験をした。それがプロゴルファーになってからの財産にもなってくれたんだ。(続く)
尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。
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