微笑み方が印象的な青年の、最高の笑顔
もう10年以上経過したいまだから告白するけれど、かつてわたしは谷原秀人に、とんでもない失礼を2度もしてしまった。この場を借りて、先にお詫びしておこうと思う。
「ごめんね、谷原くん。大変失礼しました」
最初の失礼はフロリダ州オーランドで初めて谷原に出会ったときだった。わたしの取材の目的は谷原ではなく、合宿に訪れていた別の日本人選手だった。その選手が拠点にしていた現地の日本人の家を訪ねると、玄関先に座り込んで甲斐甲斐しくゴルフボールを拭いている青年がいた。それが谷原だった。
シンプルなTシャツと短パン姿でボールを拭き続けていたその青年は、プロゴルファーやその予備軍には見えず、雑用のためにアルバイトで雇われている現地人だろうと思い込んでしまった。彼の素性がわかったのは、取材を終え、その場から引き揚げようとしたときだった。
「コイツも近いうちに表舞台に出てきますから、舩越さん、そのときは取材してやってくださいよ。必ず、アメリカに来ますから」
元々、顔見知りだった日本人のコーチがその場に居合わせ、最後に谷原を紹介してくれた。谷原はほとんど無言で、静かに微笑みながら、恥ずかしそうに会釈した。
2度目の失礼は、谷原が日本でプロ転向したあとのこと。日本ツアーの秋のビッグ大会に招待出場していた外国人選手の取材のため、わたしは一時帰国し、九州へ出かけていった。試合会場のクラブハウスでランチを食べていたら、いつぞやの日本人コーチがキャディ姿でやってきた。
「舩越さん、谷原も出てるから、取材してやってくださいよ。僕がバッグ担ぐんです」
谷原といわれてもピンと来ず、「だれだっけ?」と問い返し、フロリダのあの家でボールを拭いていた青年をようやく思い出した。声をかけてきたそのコーチは話しながらどんどん歩き、ほかのキャディたちが昼食を取っている長テーブルに座った。そして数秒後、横に座ってきた青年に「はい、カギ」といいながら、じゃらじゃらとカギがいっぱいついたキーケースを渡した。その青年もきっとだれかのキャディなのだろう??わたしはそう思い声をかけた。
「あなたはだれのバッグを担ぐんですか?」
青年がキョトンとした顔をした瞬間、コーチがすぐさま口をはさんだ。
「ちょっと舩越さん、コイツが谷原。キャディじゃなくて、選手!」
「えっ! ごめんなさい。ごめんね、ごめんね。ホントに、ごめんね」
Tシャツと短パン姿だったあのときとは雰囲気がすっかり変わっていて、すぐにはわからなかったのだ。コーチは「もう、舩越さんは本当におっちょこちょい……」といい続けていたが、谷原はフロリダで初めて会ったあのときと同じように、終始、静かに笑っていた。その微笑み方が強く印象に残り、以後、谷原は忘れられない存在になった。
挑み、敗れそして雪辱
そんな谷原と再会したのは04年秋にカリフォルニア州で行われたQスクール(予選会)の最終予選だった。翌年の米ツアー出場権をかけて戦う6日間の長丁場は、挑戦者たちが胃に穴を開けるほどの重圧がかかる。だが、当時26歳だった谷原は、ラウンド中も目が合えば微笑みながら会釈する余裕を見せ、プロデビューからわずか3年目で米ツアー出場権をあっさり獲得した。
このときも谷原は静かに微笑んでいた。だが、無口だった以前より、少しだけ自分の言葉で語るようになっていた。
「うれしいけど、(日本で)初優勝のときのほうがうれしかったかな」
彼はその直後に、こうもいった。
「日本ツアーはすでにマンネリ。そこそこやれる自信もあるし、喜びもそこまで。プロゴルファーである以上、絶対にアメリカでプレーしなきゃいけないと思うんです」
日本でやるべきことはやった。踏み出すべき次なるステップは、米ツアーで戦い、そこで結果を出し、喜びを噛みしめること。静かな微笑みの向こう側に秘められたアスリートらしい熱い闘志を、このとき初めて彼に感じ、頼もしく思った。
けれど、05年から米ツアー本格参戦を開始した谷原の表情は日に日に曇っていった。グリーンに悩まされ続け、故障も重なり、成績は下降するばかり。夏を迎えるころには、あの微笑みさえ浮かべられなくなり、苦しそうに下を向いていた。
そして、ある日、ひっそりと静まり返った夕暮れの練習場のフェンスにもたれながら、彼が胸の内をぼそぼそと吐露した。
「日本語でしゃべる人もいない。日本ならパチンコやカラオケでストレス解消もできるけど……」
それなら日本のモノがあふれているニューヨークに拠点を置いたらどうかと勧めると、「物価、高いかな。でも考えてみようかな」。が、それから1カ月も経たないうちに、谷原はシーズン半ばにして日本へ引き揚げていった。
米ツアーの壁、世界の壁に打ちのめされてしまったのだろうか。もう谷原が海外に挑むことはないのだろうか。そうだとすれば、ひどく残念なことだと思っていたら、10カ月が経過した06年全英オープンに谷原は出場し、5位に食い込んだ。
微笑みの変化最高の笑顔
優勝の可能性さえ感じながら戦った全英オープン最終日、前半でスコアを落としながらも後半で盛り返した執拗な戦いぶりは、米ツアーから去った彼が再び世界の舞台に戻ってきた歩みとぴったり重なっていた。
クラレットジャグに現実的に近づいた日本の若者は世界中のメディアから注目され、たくさんの取材を受けた。谷原が前年は米ツアーメンバーとして戦っていたことを知っていた欧米メディアは皆無に近かったが、素晴らしいプレーをしたという目の前の事実があれば、過去の事実はもはやどうだっていい。アスリートの世界、勝負の世界では、そうやって挽回ができ、自信回復もできるということを、谷原は身をもって知り、世界に示した。
ロイヤルリバプールのクラブハウス前で、久しぶりに谷原とふたりで話をした。
「去年の夏、突然帰国したときは、日本に戻る機内が辛かったでしょう?」
そうたずねると谷原は微笑みながら否定した。
「いいえ、全然。だって、必ず戻ってくるぞっていう気持ちはつねにあったから」
そうだったんだ。落胆に打ちひしがれていたわけではなく、リベンジを心に誓いながら帰国の途に着いたことが、このとき初めてわかった。そして、「必ず戻ってくる」と誓ったその想いをこの全英オープンでどこまで実現できるか。彼は、それだけを考え、乗り込んできた。それは自分との戦いであり、世界という舞台への雪辱戦だったのだろう。
「世界中のメディアから注目されるのは、いい気分だったでしょう?」
ちょっぴり茶化しながらたずねると、谷原は明るい笑みで、大きくうなずいた。
「はい。すごくいい気分。やったー!」
両手を空にかざしながら谷原が笑った。わたしが知る彼の最高の笑顔は、いまもわたしの脳裏に焼きついている。
微笑みではなくあの笑顔を……
翌月。全米プロにも出場した。07年にはとうとう夢のマスターズにも辿り着いた。着々と世界へ踏み出す谷原のそんな姿を眺めるのは楽しかった。だが、結果は惨憺たるものとなり、最下位に近い91位で予選落ち。「悔いはない」といってはみたものの、日本メディアの群れから離れると、「やっぱり悔しいっすね」と唇を噛んだ。
「ボクはなにをやってもうまくいかないんです、最初は……」
最後にうまくいけばいい、咄嗟にそう思ったが、傷心の谷原にはいえず、彼はオーガスタを去っていった。
以後、谷原と会う機会は一度も巡ってきていない。だが、かつて谷原のバッグを担いでいた進藤大典が、谷原の東北福祉大学ゴルフ部の後輩だった松山英樹のキャディとなり、いまはそのふたりと米ツアーで顔を合わせている。
「あのとき、全英で谷原さんのボールを一緒に探しましたよね」
そう、ロイヤルリバプールの2日目の8番。大きく左に曲がった谷原のボールを「どうかOBではありませんように」と願いつつ、必死になって探したことがあった。そんな思い出を進藤としみじみ話しながら、「わたしね、谷原さんをキャディだと思い込んで、だれのバッグ担ぐのって聞いちゃったことがあるのよ」そう松山に話したら、きょとんとした顔になっておどろき、そのあと苦笑した。そのとき、松山の笑顔と谷原のあの微笑みが重なって見えた。
もう、谷原は世界の舞台に戻ってはこないのだろうか。彼の微笑み、いや、彼が英国の空に両手をかざしながら見せてくれた、あの最高の笑顔を、もう一度、見たいなあ。
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