マッチプレーがいやだという、強くてやさしい大ちゃん
いい時代だったなあと、つくづく思う。丸山大輔が米ツアーに参戦していた2006年と2007年のことだ。
時代がよかったというより、彼のような日本人選手が米ツアーにいてくれたことで、取材の場が和んだ。毎週、彼のような日本人選手と言葉を交わすことで、わたしの心は和み、取材をするのが楽しかった。だから、あのころがとてもなつかしく、いい時代だったなあと感じるのだろう。
もちろん、いまはいまで、とてもいい時代なのだ。石川遼と松山英樹のふたりがフル参戦している今季は、いわば日本人選手の豊作の年。近年は恵まれているといっていい。だが、ルーキーイヤーにいきなり初優勝した松山が今度はメジャー優勝だと気勢を上げ、スポット参戦を含めて米ツアー6年目を迎える石川が大勢のチームメンバーにサポートされながら笑顔を絶やさない様子を眺めていると、ああ、やっぱり時代が違うのだろうなあと思わずにはいられなくなる。なぜって、丸山大輔が米ツアーに参戦していたころとは、あらゆることが、あまりにも異なるからだ。
マッチプレーがいやだという、強くてやさしい大ちゃん
丸山茂樹と混同してしまいそうだし、丸山(大)と書くと興ざめなので、ここから先は「大ちゃん」と記すことにしよう。とはいえ、面と向かって「大ちゃん」と呼んだことはなかった。いつも「丸山さん」と呼んでいた。大ちゃんのほうがとんでもなくていねいな姿勢だったので、こちらもつられてていねいになった。だが、彼がいないところで彼の話をするときは、親しみを込めて、いつも「大ちゃん」と呼んでいた。「明日、大ちゃんのスタートは何時だったっけ?」という具合に。
大ちゃんが2005年の秋にQスクールを突破し、米ツアーのルーキーとしてデビューした06年のソニーオープン。仲間内から地味で「ジミー」と呼ばれていた大ちゃんは、「ハワイでこれだけ緊張しているのに、本土に行ったらどうなっちゃうんだろう」と不安を抱き、練習グリーンの片隅に隠れるように座っていた。
だが、いざツアーが本土に移ったら、以後の大ちゃんは決して泣き言を口にせず、いつも黙々と練習し、淡々とプレーを続けていた。ほかの選手たちが「グリーンがやわらかくてデコボコだ」と不平不満を募らせたときでも、大ちゃんだけは「アジアツアーでやっていたときのグリーンのほうがひどかったから、あれに比べればきれいなもんですよ」と穏やかに笑っていた。前半に崩れても後半に立ち直り、予選落ちすれすれのところで執拗にパーを拾って生き残る。そんな大ちゃんは、強く深く根をはり、踏みつけられても頭をもたげる雑草みたいだなあと、よく思った。
あれは06年の夏。男子ツアーに挑戦し続け、世界中の注目を集めていた当時16歳のミッシェル・ウィーが7月のジョンディアクラシックに出場することが決まったとき、大ちゃんは冗談めかして「ウィーと同組にだけはなりたくないです」といった。だが、皮肉なもので、大ちゃんはウィーと予選2日間を一緒にまわることになってしまった。
そして当日。まだ脚光を浴びたことがほとんどなかった大ちゃんの組にカメラの放列ができ、大勢の記者たちが押し寄せた。しかも、ウィーは初日に大荒れのゴルフを披露し、2日目はラウンド途中から熱中症にかかって、しゃがみ込んだり、よろよろしたり、悩んだりした挙句、途中棄権して救急車で搬送される騒動になった。
同組だったもうひとりの選手、ジェフ・コウブは「まったくもう……。途中で医者を呼ぶし、プレーは遅いし、散々だった」と不満を爆発させていた。が、棄権を決意したウィーから「マルヤマサン、ゴメンナサイ」と日本語であいさつされた大ちゃんは、やさしい笑顔で彼女の手を握り、ホールアウト後はこういった。
「男子のほうが歩くペースが早いし、このコースは坂が多いから、ミッシェルは大変だったでしょうね。それに、男子の試合は距離が長いから、彼女はそのぶんドライバーを振っていかなきゃいけない」
女子選手としては絶大なる飛距離を誇るウィーでも、男子に混じってプレーするとなれば、武器のはずのドライバーが逆に疲労を助長する要因にもなると、大ちゃんは冷静に指摘した。
「でも彼女と一緒で、いい緊張感が得られた」
そんなふうに、大ちゃんは、どこまでもやさしかった。
長い間待ったから辛抱強くなった
1対1のインタビューをしたときも、大ちゃんの言葉の端々には、やさしさが漂っていた。
「人と人どうしで戦うのはダメ。だから、マッチプレーはダメ。ゴルフがストロークプレーでよかったと思います」
だが、やさしさだけではプロゴルファーは続けられないはずだし、米ツアーには辿り着けなかったはずだ。やさしさと同等か、それ以上の強さがあるはず。この人の強さは、どこにあるのだろうか。どんな強さを備えているのだろうか。そう思いながら彼を眺めていたら、はっきりと見て取れたのは、彼の辛抱強さだった。
一緒に日本食のレストランへ行ったときのこと。あのときは、もうひとり、わたしもいまでは忘れてしまったのだが、丸山茂樹だったか、今田竜二だったか、どちらかがそのレストランで合流する約束になっていた。大ちゃんとわたしだけが先に到着し、もうひとりを待っていたのだが、待ち人はなかなか来なかった。しばらくしてわたしは待ちきれなくなり、「もう先に食べちゃいましょうか?」といった。しかし、大ちゃんは「せっかく待ったんだから、来るまで待ちましょう」と、笑顔を浮かべながら静かにいった。
そういえば、大ちゃんは日本ツアーに辿り着くまでにも、ずいぶん長い時間、表舞台に立つ日を待っていたんだったっけ。かつてのインタビューで彼から聞いた話を思い出した。
「23歳でプロになって、日本のシードがなかなかとれなくて、それでアジアツアーのQTを受けたとき、ふと気づいたら29歳になっていたんです。このまま30歳になったら、ただのプロで終わっちゃう。なんとかしなきゃって思ったことがありました。で、アジアのQTに受かって、アジアの試合に出た。それが生まれて初めて経験した4日間競技でした。でも、アジアでもチャレンジツアーでも、あまりいい成績が出せなくて、あのころはシード選手というものが、すごく遠かった。結局、シード選手になれたのは32歳でした。長かったですよ」
大ちゃんにとって「長い」というのは、こういう内容、こういう長さのこと。レストランで待つ小1時間を「長い」なんて感じない。そんな辛抱強さが大ちゃんの最大の武器なのだろうなあとわかってきた07年の秋、大ちゃんは「失敗した」と肩を落とした。
賞金ランクによるシード権が確保できず、Qスクールに挑むことにしたのだが、大ちゃんはその直前に、日本ツアーでの出場の優先順位が優位になることを狙い、強硬スケジュールを組んで日米を往復。だが、そのせいで疲労困憊した大ちゃんは肝心のQスクールで手が震え、上位25名に入ることができずに終わってしまった。それでも下部ツアーの出場権だけは維持できたので、「二軍でも出られる試合はなるべく出てがんばりたい」といっていたのだが、いつしか大ちゃんの姿は米ツアーから消えてしまった。地味なジミーの大ちゃんなのに、大ちゃんがいなくなった米ツアーはとてもさみしくなった。
今夏、WGCブリヂストン招待に出場した大ちゃんから、「舩越さん、おひさしぶりです」と声をかけられたとき、なつかしい気持ちになった。この7年間の歳月を一気に遡り、大ちゃんが米ツアーにいて心が和んだあのいい時代に返ったような、そんな気分になった。
大ちゃん――米ツアーで2年間奮闘した丸山大輔。彼のことを覚えている米ツアー関係者や米メディアは、いまでは皆無に近い。だが、わたしにとって大ちゃんは、絶対に忘れることのない存在。いい時代の思い出として、ずっと覚えていたい存在なのだ。
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