連載コラム


賞金王争いの中での痛恨のOB

2014/12/6 21:00

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 目の前の視界が急に開けて、ずっと遠くまでが明瞭に見える。僕にとって1984年は、そういうシーズンになった。

 3月の開幕戦で初優勝。8月までに3勝を挙げた。その時点での獲得賞金額は3715万円あまり。2位の次兄・ジェットには1000万円近い大差をつけて、賞金王レースのトップを走っていたのだ。

 そのとき僕がこんなことをいっていたと当時の新聞には書いてある。

 「賞金王なんてまだ先のことだよ。でも、それだけの努力はしているから、与えられてもいいのかもしれない」

 そのくらい勢いに乗っていたし、努力への自信もあった。とくにこの試合、『KBCオーガスタ』は中嶋常幸選手、倉本昌弘選手、ジェットらと優勝を争った。自分より年齢は少しだけ上なのに、実績はずっとずっと上。そんな強豪たちとの戦いになったんだ。最終日、2位タイからスタートした僕は17番パー3の1打目をバンカーに打ち込んだ。だが、次の9メートルの第2打がカップイン。このバーディが決め手になって1打差で勝った。過去2勝はいずれも逃げ切り。このとき初めて逆転優勝ができて、勝ち方のパターンも増えた。シーズンも半ばを過ぎたころだから「もしかしたら賞金王も…」と考えるようになっていたんだ。

 9月以降の秋の陣に入ってからも、調子は悪くなかった。優勝はできなかったものの、賞金レースのトップは守っていた。

 そうして迎えた11月第1週に『日米対抗』が行われた。開催コースは総武CC(千葉県)。出場選手は両チーム8人ずつの16人。僕は個人戦で、マーク・オメーラとともに2位タイ。優勝したトム・ワトソンとの差は1打だった。

 日本ツアーの賞金王になると、世界のメジャーから招待状が届いていた時代だから「賞金王を獲れば、次は世界だ」という思いも、米ツアーのトップ選手たちとの戦いのなかで強く感じた記憶がある。そのくらい、調子は悪くなかった。そしてその状態で臨んだ翌週の『太平洋マスターズ』が運命の試合になった。

 初日は4アンダーで首位と2打差の4位タイ。2日目は2アンダーで5位タイ。3日目に5アンダーをマークして首位に2打差の2位タイに浮上した。優勝賞金は約1590万円。勝てば賞金王に大きく前進できる金額だった。

 その目論見の前に立ちはだかった選手がいた。首位に立った前田新作選手だ。

 前田選手は9、10月に1勝ずつを挙げて、賞金ランク3位まで浮上してきていた。この時点で僕との差は687万円あまり。ここで負ければ逆転される可能性が濃厚だった。

 最終日は最終組で一騎打ちになった。前半9ホールはお互いにパープレー。折り返しの10番で僕がバーディを獲って1打差になった。

 次の11番は491メートル(約540ヤード)のパー5だ。

 「ロングホールだから、ここで一気に追いつこう」と思った。だがその1打目が右のOBゾーンに飛び込んでしまったのだ。打ち直したあとの5打目はカラー。そこからの6打目は20メートルあったが、それを放り込んでボギーではあがった。だが、前田選手はバーディを決めてその差は3打まで開いた。

 よく「痛恨のOB」というけれど、このホールの1打目はまさに痛恨だった。追い上げムードに自分で水を差してしまったんだからね。

 3打差のままで迎えた最終ホールは473メートル(約520ヤード)。僕は2オン1パットのイーグルを獲ったけど、前田選手はパーをセーブ。優勝には1打届かなかった。終わってみれば2位タイ。僕の賞金は636万円で、およそ250万円の差をつけられて、賞金レースのトップを譲る結果になった。

 それでもまだ4試合残っていた。高額賞金の大会も多いから再逆転のチャンスは十分にあった。しかし差は縮まらなかった。

 次の『ダンロップフェニックス』とその次の『カシオワールド』はどちらも37位タイ。少しずつ僕を上まわっていた前田選手との差はジリジリと開いて約290万円になった。その次は12月1週の『ゴルフ日本シリーズ』。18人しか出場しなかったこの試合は逆転の好機だったが、ふたりとも10位タイ。同じ賞金を分け合って、最後の『大京オープン』を迎えることになった。

 優勝賞金は600万円。逆転するには勝つしかない。そういう意気込みで舞台の沖縄に乗り込んだ。でも奇跡は起きなかった。というより正反対の惨敗を喫してしまったんだ。初日のスコアは79。7オーバー122位(出場162人)だった。2日目も76で完ぺきな予選落ち。賞金王をかけた僕の戦いはここで終わった。長いシーズンがやっと終わった、というのが沖縄を去るときの正直な気持ちだった。心身ともに疲れ果てていたんだ。


賞金王争いに敗れたのは「開き直り」ができなかったから

 この結果をどう受け入れればいいのか。自問自答する日々がしばらく続いた。

 「初優勝した年だから、賞金ランク2位は悪くない。いや、大健闘じゃないのか。でも、千載一遇のチャンスを逃したのかもしれない。いやいや、完全燃焼したのは間違いない。がんばったんだから、そんなふうに思ってはいけないのではないか」

 こんなふうに気持ちは揺れ動いた。ようやく「出した結果は受け入れるしかない」と思えるようになったのは、だいぶ時間がたってからだった。当たり前すぎる結論をやっと出せたわけだけど、問題はこれからのことだった。

 次の春にはまた新しいシーズンがはじまる。もう一度賞金王争いができる、という保証はないけど、そうなれるように一歩でも前に進まなければいけない。そのためには、これからの自分の課題を明確しなければいけないことはあきらかだった。反省をベースにして、「自分のゴルフ」をしっかり見つめ直す必要があったんだ。

 もちろん楽しい作業にはならない。でも、やらなければ次がないという危機感で考えた。

 最初に自覚できたのは、夏場までのゴルフと終盤のゴルフがまったく別物になったことだ。シーズン半ばまでは、ウキウキした気分でプレーをしていた。それがしだいに変わっていった。気分が重くなり、打てるはずのショットが打てなくなり、やれるはずのプレーができなくなっていった。

 原因はあきらかだ。賞金王を意識したことだった。とくに最後の1カ月、11月に入ってからはメンタル面が急激に変わった。それが自分のゴルフを押しつぶしたんだ。

 たとえば『太平洋マスターズ』のOB。11番パー5は、あの当時の僕の飛距離では2オンは不可能だった。そのことはわかっていたのに「右からドローで飛ばそう」としてしまったのだ。当時は糸巻きボールとパーシモンヘッドの時代。ボールを曲げて打つことは特別なことではなかった。ただ、狙ったとおりに曲がらないことももちろんあった。考えてみれば、必要がないのに曲げようとしたときに、そうなることが多かった。曲がらなかったり、曲りすぎたりするのはリキんだときだ。必要がないのにやろうとするのは欲が過剰になったとき。それがリキみを生んだことを感じた。

 完全に自分のゴルフを見失っていたことがわかった。攻め方を先に決めて、狙ったところに運ぶのが僕のスタイル。それを貫いたことで、20歳でプロテストに合格できたと以前に書いたとおりだ。それを思えば2オンできないパー5で「右から回して飛ばしてやろう」というのは、ありえないプレーだったんだ。

 そのOBで敗れたあとは、精神的にもっと苦しくなった。たとえば翌週の『ダンロップフェニックス』。そのときの新聞記事には「寝過ごしてスタートに遅刻しそうになり、ズボンをはきかえる暇もなくプレーした」と書かれている。寝過ごしたというよりも、一晩中眠れなかったんだと思う。朝方になってまどろんだら目覚ましに気づかなくなってしまった。いまとなっては明確に覚えていないんだけど、そういうことだった気がする。

 なぜ眠れなくなったのか。迷いにさいなまれたからだ。

 自分のゴルフを見失うのは「こういうゴルフをするんだ」という自分流の決まりごとが実行できなくなること。自分流ではうまくいかない気がして、やり方を変えたんだ。それがうまくいかないと、どうしていいかがわからなくなる。そこに迷いが生まれる。

 つまり、そもそものはじまりが自分への自信がもてないことにあったわけだ。

 そして、そうなったのは相手のプレーや自分の順位を気にしすぎたためだった。

 賞金王を意識してからは、プレーしながらスコアボードをすごく気にするようになった。前田選手のスコアや自分の順位を意識し続けていたんだ。そうなるとスコアが伸びなくなる。土日の決勝ラウンドでは「ベスト10に入らないと差が縮まらない」とか「少しでも上にいかなければいけない」という状態に追い込まれて、プレーがさらに苦しくなった。

 相手のスコアは自分では変えられない。また、自分の順位も自分の力だけでは決まらない。よいスコアを出してもそれを上まわる人に抜かされる場合があるし、たたいたと思っても順位が上がる場合もある。そんなことはわかっていたのに『なんとかしよう』と焦ってしまった。「自分のゴルフ」など、できるわけがなかった。

 ごくわかりやすくいえば「開き直り」ができなくなっていったんだ。

 「負けられない」と思い続けている。その一方では「意識しすぎてもいけない」と思う自分もいる。どっちつかずで明日の試合に臨まなければいけない。ベッドに入っても眠れなくなってしまったのは、そう思ったときだった。

 やることをやる。あとはどうなってもいい。これが開き直りだよね。言い方を変えると「人事を尽くして天命を待つ」という心境になることだ。

 それができなかったことで、僕は賞金王争いに敗れた。


メンタルが揺れても崩れないスイングをつくる

 このころはまだ、チームで試合に臨む選手はほとんどいなかった。専属のコーチがいたり、マネージャーや帯同キャディが一緒に行動する慣例はなかったんだ。

 僕のキャディもほとんどコースのハウスキャディ。コースのことは詳しかったが、「ガンガン攻めましょう!」とか「ここはがまんして次から行きましょう」というアドバイスは望めなかった。それが自分を見失った原因だ、というわけではないんだ。ただ、すべてを自分で背負い込むには、僕はまだまだ未熟だった。

 メンタル面のモロさが技術に影響を及ぼした。そういうシーズンの終盤だったことはあきらかだった。だが、より大きな問題は「メンタルで崩れてしまった自分の技術」だと僕は思った。

 そう思えるようになったら、やっと少し気持ちが落ち着いた。「負けてしまった」と悔やむ気持ちより、「また次を狙っていけばいい」と思えるようになっていったのだ。

 じつはこの84年には「負けてもまた次がある」と思えたことが何度かあった。そのひとつが『KBCオーガスタ』の17番。バンカーからカップインしたショットだった。

 あの1打は「負けられない」という気持ちをほとんどもたなかった。妙に無心になれて、そのまま打てた。それは、苦しみ抜いた最後の1カ月にはまったくなかった心境だった。

 「今回、賞金王を獲れなかったのは、神様が『もっと力をつけてからまたチャレンジにきなさい』といってくれているのではないか」

 ありきたりだけど、そんな捉え方ができるようにもなっていった。そのためには、もっともっと自分のゴルフの力をつけなければいけない。とくに重要だと思ったのがショット力を高めることだった。

 「メンタルが揺れても崩れないスイングをつくり上げよう」

 それを次のテーマにして、また一歩前に進もうと決意したんだ。(次号に続く)





「こういうゴルフをするんだ」という自分流の決まりごとが実行できなくなると自分のゴルフを見失う。その、そもそものはじまりは自分への自信がもてないことにある


尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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