連載コラム


自信がもてない30代のはじまり

2014/12/29 21:00

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優勝はするが納得できないシーズンが続く



 1985年。賞金王争いに敗れた次のシーズンがはじまった。56年生まれの僕が29歳になる、20代最後のシーズンだった。

 開幕を迎えた3月には、気持ちは切り替わっていた。「今年もまたがんばろう」と前向きになれていたのは、プロだから当然といえば当然。試合で戦うのが仕事だから、敗れたショックを引きずっている暇はない。『負けたけど、次のチャンスは絶対にモノにするぞ』という姿勢で新しいチャレンジをしていかなければならないからだ。そのあたりは、20歳でプロテストに合格してから一歩ずつ前に進んできた経験で、よくわかっていた。

 なによりもファンのはげましがあった。試合に出ると「今年はがんばれ」と声をかけてくれる。落ち込んで立ち止まることなんて絶対にできなかった。

 ただ、思いと現実がいつも一致するわけでもない。この年の僕も開幕から9試合で3度も予選落ちを喫するようになっていった。

 開幕戦の『静岡オープン』は前年に初優勝した縁起のいい大会。連覇を意識した部分があったのか、予選は74、75とオーバーパー(パー72)が続いたが、なんとか決勝に進めた。そして、3日目に69をマークして17位タイで試合を終えられた。2戦目の『ポカリスエット』は8位タイ、次の『ブリヂストン阿蘇』は5位と調子が上がったと思った直後の『ダンロップオープン』ではシーズン初の予選落ち。それから4試合後の『ペプシ宇部』、次の『三菱ギャラン』も連続で予選落ちとなってしまった。

 自分では切り替えられていたつもりだったけど、賞金王を逃したことを引きずっていたのかもしれない。賞金王を獲れば出られるといわれていた『マスターズ』を逃したショックもあったかもしれない。

 この年のマスターズで優勝したのは、西ドイツ(当時)のベルンハルト・ランガー。僕より1歳年下だったことに刺激を受けたし「自分もオーガスタで戦ってみたい」という気持ちにもなった。

 本格的に復調したのは6月に入ってからだった。第2週の『東北クラシック』は仙台近郊のトーナメントだ。初日から69、69、71、71と4日間アンダーパー(パー72)を続けて通算8アンダー。単独2位で終えることができた。

 このあと、予選落ちはしなかった。シーズン終了までのすべての試合で予選を通ることができた。何度か優勝争いにも加わり、8月半ばの『日経カップ』ではシーズン初優勝を飾ることができた。前年8月の『KBCオーガスタ』以来1年ぶりの優勝で、勝つことの喜びを思い出した。

 開催コースは埼玉県の川越カントリークラブ。6111メートル(6720ヤード前後)のパー71で「プレーしやすい」という印象が強い。OBもあって打ち込む選手もいたが、僕には攻めやすく、アイアンショットでグリーンをはずすことがほとんどなかった。そのおかげでスコアがグングン伸びた。66、68、66、68と4日間とも60台。通算14アンダー。4打差で悠々と勝てた。初日からトップを守り続ける「完全優勝」と呼ばれる勝ち方ができたのは、これが初めてだった。

 上位にはいい顔ぶれがそろった。中嶋常幸選手(当時は中島)、倉本昌弘選手の同世代のライバルは8アンダーで4位タイ。その下には長兄ジャンボ(最終的には7位)、次兄ジェット(同12位)もいた。強い選手たちを抑えて勝てたこともうれしかった。

 ただ、この年は結局、この1勝だけだった。賞金ランクは8位。平均ストロークは72・10。あまりいい数字とはいえない。最後の10試合でベスト10に7回入れたことに希望を感じて次のシーズンに臨むことになった。

 その1986年は、前年よりも安定した戦い方でスタートできた。開幕から6戦でベスト10が3回。予選落ちはゼロだった。シーズン初優勝は8戦目の『ペプシ宇部』。通算5勝目を記録した最終日は5月25日。1週間前に30歳の誕生日を迎えたばかりのメモリアルVにもなった。

 開催コースは宇部カントリークラブ(山口県)。最終日は2位からスタートし、7番からの3連続バーディで首位を奪っての逆転優勝だった。この時点で賞金ランク2位に浮上。当時は日本最強だった中嶋選手と「賞金王争いをやる」と宣言したりしていた。

 だがその後の成績は伸び悩んだ。さらなる勝ち星を挙げらないままにシーズンを終えた。賞金ランクは7位。平均ストロークは71・64。いずれも前の年よりわずかによくなったという程度の30代最初の1年だった。

 この傾向は翌年も変わらなかった。1987年は開幕から8戦目まで予選落ちなし。9戦目から3試合連続で予選落ちを喫したが、その次からは8位タイ、10位タイと成績を上げて、その次の『関東プロ』でシーズン初優勝ができた。開催コースは下秋間カントリークラブ(群馬県)。この大会で初優勝を逃してから4年目のリベンジで、場所も同じ群馬県。賞金王レースにもリベンジしていければよかったんだけど、そこまで成績は伸びなかった。

 この年も優勝はこの1回。平均ストロークは71・66で前年とほぼ同じだが、賞金ランクは12位。4年ぶりに2桁順位に下がった。ほかの選手の平均ストロークがよくなったのか、自分が勝負弱くなって稼ぎが減ったのか。いずれにしても納得のいかない結果だった。


自分自身もゴルフ自体もとても不安定な時期

 冒頭にもいったように、プロには『次のチャンス』がある。そのチャンスをできるだけ多く作り出し、可能なかぎりモノにするには「一歩ずつ前に進む」ことが鉄則になる。84年に賞金王争いに敗れたが、僕にとって肝心なのは、その後も着実に前進することだった。

 その点で85年からの3シーズンはどうだったのだろうか。

 「毎年1勝ずつを挙げる」ことは、ツアープロの大事な目標だ。勝てば大きな賞金と翌年のシード権が手に入り、暮らしと仕事が継続できるからだ。僕も初優勝してからは、シーズン1勝は自分にとっての最低限の目標=ノルマだと考えてきた。それは達成できた3年間だった。初優勝の84年から4シーズン連続の優勝は、そのころの日本ツアーではトップクラスの実績といっていいと思う。

 ただ、84年の成績に比べて「前に進んだ」とはいえない。1年だけでなく、そういうシーズンが3年も続いたことが嫌だった。あきらかに後退しているように感じたからだ。年ごとに、前に出そうとする足が重くなっていく。そういう感じがしていた。

 もちろん、なにもしなかったわけじゃない。というよりも、それまで以上にいろいろなことにトライしていた。

 メンタル面では、自分を鼓舞しようとしていろいろな工夫をした。たとえば85年の『日経カップ』に優勝したときには「心のスランプを脱出した」という言葉を口にした。勝って気分がよくなったことは当然だけど、それだけで完全に吹っ切れたわけでもなかった。賞金王を獲らないと、本当に「脱した」とは思えない時期だったからね。

 それでも「脱した」といったことにはふたつの意味があった。

 ひとつはファンへの御礼。多くの人が去年以上の声援を送ってくれるようになっていた。それに対して『もう大丈夫ですよ』というメッセージを伝えたかった。

 もうひとつは自分へのはげまし。『やっと勝てた。さあ、どんどんいこう!』という勢いをつけたかった。1勝のノルマははたした。それが夏場だったことは、直後にはじまる秋のビッグイベントのシーズンを考えるといいタイミングだったからね。

 また86年の『ペプシ宇部』ではこんなこともいっている。

 「これまでは『勝ちたい』と思っていたから恐怖も感じた。この試合からは『ここで勝つんだ』と自分にいい聞かせることにした」

 これは勝ちたいという願望ではなく、『勝つ』という意思を固めて怖さに打ち勝つ、ということだった。

 「OBを打っちゃいけない、と思うのではなく『フェアウェイに打つぞ』に変えた」

 こちらは失敗を避けるというネガティブな意識を捨てて『フェアウェイに打つ』という成功だけを考えて、ポジティブに気持ちを集中させる、ということだった。それでも望む結果には近づけなかった。自分のゴルフに対する自信や確信がなかったからだと思う。

 「このままの自分のゴルフを貫けば、すぐにもう一度賞金王争いができる。賞金王も獲れる」というレベルの自信はなかった。その自信はどうすればつかめるのか。そこのところでものすごく悩んだ3年間だった。シーズンに1回勝つことはできても、勝てるゴルフを続けられる強さは持ち合わせていなかった。そのことは記録をみると、よくわかる。

 たとえば86年。優勝した『ペプシ宇部』の翌週の『三菱ギャラン』は56位タイ。開催コースは難しい大洗ゴルフ倶楽部(茨城県)だった。優勝は中嶋選手で、その下にはジャンボ、青木功さん、新井規矩雄さん、金井清一さん、倉本選手らの名前が続いている。当時の強豪が上位を占めるなかで、前週に優勝した僕は絶不調のスコアで終わってしまったんだ。自分自身も、ゴルフ自体も、とても不安定だったころだと思う。


最高の手本になる前に強くなることが先

 不安定さの原因のひとつが、新しいことへのチャレンジだった。もっと強くなるためになにかをつかみたい。そう思って僕はいろいろなことに挑んできた。その傾向はこのころもまったく変わっていなかった。

 そういうチャレンジの手本になったのがトム・ワトソンだった。84年の『日米対抗』でワトソンは個人戦で優勝した。僕は1打差の2位。彼と一緒にまわって、いろいろな面で大きな影響を受けた。たとえばスイング面。身長はたいして変わらないワトソンが、ロングアイアンで高い弾道のドローボールを打っていた。それを間近に見続けた僕は、その弾道をまねしようと思った。

 なんといっても「見て盗め」の時代だったからね。ただ、どういうスイングをしたらいいのかはわからなかったので、いろいろな試行錯誤をした。

 僕のやり方は『球筋に聞け』だった。僕がスイングを変えるときは『球筋を変えたい』とき。『こういう球筋を打てるようになりたい』『この球筋をもっとよくしたい』。そういう願望をもったときにスイング改造にチャレンジする。

 グリップやアドレス、バックスイング、インパクト、フォロースルー。いろいろなところを少しずつ変えてみる。そしてボールを打って、目指すものに近い球筋が打てたら変更点を採用する。球筋が変わらない、違う球筋になるという場合は変更点を元に戻す。こんなふうな作業を続けた。

 この方法には「正しい振り方で悩むことが少ない」というメリットがある。「正しい振り方を覚える」という考え方をしないので、そこで悩まないからだ。

 デメリットはフォームが独特なものになる可能性があることだろう。僕もそういうふうになった。ワトソン流のハイドローの球筋を追求していったら、インパクトで伸び上がる動きが強くなったんだ。試合でミスが出たときは、そのせいだと指摘されるようになった。気にしないように努めたけど、そういわれるのは楽しいことではなかった。

 プロは、アマの手本であるべき。僕はそう考えていたからだ。とくに熱心にゴルフに取り組んだり、プロを目指したりする人は、強いプロほどまねたくなるからね。でもこのときは、そのためにフォームをつくろうとは思えなかった。

 『いずれは最高の手本になりたい。でも、いまは強くなることが先だ』

 そう考えて自分の道を進んでいった。

 その努力がようやく実を結ぶようになったのは、このあとだった。1988年のシーズンから、尾崎直道は一皮むけた強さが発揮できるようになった。(続く)





自分のやり方は「球筋に聞け」。スイングを変えるときは「球筋を変えたい」とき。「こういう球筋を打てるようになりたい」「この球筋をもっとよくしたい」そういう願望をもったときにスイング改造にチャレンジする。


尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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