連載コラム

舩越園子 サムライたちの記憶

今田竜二(1)

2015/1/9 22:00

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小声のなかにも強い意志あり



タイガーかリウジか

 初めて会ったときからそうだった。今田竜二は、いつもボソボソと小さな声で話していた。しかし、小声ながらも、その中に強い意志が感じられ、主張がある。それが今田らしさだった。

 90年代の半ば。当時、まだ渡米したばかりだったわたしはジョージア州アトランタに住んでおり、日本であまり知られていない米ゴルフ界の「なにか」を見つけては取材に出かけ、原稿にするという生活をしていた。

 そんな、ある日。AJGA(全米ジュニアゴルフ協会)というものの存在を知り、同協会のツアーが全米で展開されていて、そのうちの1試合がジョージア州内で開催されるという情報を得て、その大会へ興味津々で出かけていった。あのころは、まだインターネットがまったく普及しておらず、それどころかパソコンも一般的ではなくて、ワープロとか、ファックスとか、そういうものを使っていた。AJGAの存在やそのツアーのスケジュールを知るだけでも、じつはとても大変で、近場で大会が開かれることを知り得たことは、当時のわたしにしてみれば上出来すぎる大収穫。やった、やったと大喜びで車を走らせ、ジョージア州のはずれにあるキャロウエイガーデンというひなびたリゾート地へ出かけていった。

 いざ、ゴルフ場に到着したのはいいが、だれをどうやって取材したらいいのか見当もつかず、とりあえず大会本部のような小屋を発見してドアをノックした。そして、大会の概要などを聞き、注目選手を何人か教えてほしいと頼んだ。すると、AJGAのオフィシャルはにっこり笑って、こういったのだ。

「いまAJGAのトッププレーヤーはタイガー・ウッズという選手。彼は天才的プレーヤーだね。残念ながら、タイガーはこの大会には出てないけど、今日、ここにいる選手の中にもすごい子がひとりいる。リウジ・イマダ。彼は、たしかジャパニーズだよ。タイガーとリウジはいまのAJGAの中でピカイチだね」

 近年、石川遼が欧米人から「リョウ」ではなく「リオ」と呼ばれているように、今田は「リュウジ」ではなく「リウジ」と呼ばれていた。欧米人は「リャ・リュ・リョ」がうまく発音できないことをわたしは当時そうやって知った。

 そんな小さなことも、米ツアーに挑んだ日本人の歴史なのだ。が、当時の今田は自分に続く日本人が後に出てくることを考える余裕など当然ながらまるでなく、ただただ必死に日本人ゴルファーとしては前人未踏の世界を彷徨っていた。

 そして、さすが「ピカイチ」と呼ばれるスター選手だけのことはあった。わたしが取材に赴いたその日、今田は当たり前のように優勝し、表彰式で流暢な英語で堂々たるスピーチを披露した。その様子を傍から見ていたら、すっかりアメリカナイズされたアジアの少年。しかし、わたしが日本語で「こんにちは」と声をかけたら、彼はいきなりシャイな日本の男の子に様変わりし、小さな声で「こんにちは」とあいさつを返してきた。

 立ち話で、あまり時間もない様子だったので、込み入った取材はできなかった。が、将来の目標をたずねると、小声ながらも毅然と答えた。

「プロになって、PGAツアーの選手になって、スターズに出たいです」

 おとなしそうだけど芯は人一倍強そうな少年。それが今田に対する第一印象だった。


進学とプロ転向不遇の時代

 それから数年後。ジョージア大学に進学した今田を訪ね、大学のキャンパスで待ち合わせした。

「こんにちは」

 やっぱり小声で現われた今田は、ジュニアの大会で会ったときの今田より少しばかり大人っぽくなっていた。キャンパスの一角の芝生の上に座り、彼が14歳で単身渡米した話やいろいろな苦労話を聞かせてもらった。

 フロリダ州タンパにあるゴルフスクールの案内チラシ1枚を頼りに太平洋を渡ってきたけれど、アメリカでの生活やゴルフの練習環境は案内チラシの内容とは大きく違っていたこと。その食い違いに業を煮やし、スクールで知り合ったコーチのリチャード・エイブルと一緒にスクールを飛び出して、アパートで共同生活をはじめたこと。大学で外国人に課せられる英語科目の履修を巡り、トラブルに巻き込まれて、それがカレッジゴルフ(NCAA)における活動上のトラブルへ発展してしまったこと。

「ずいぶん、いろんなことがあったんだね。苦労が多くて大変だったね」

 そう声をかけると、今田はやっぱり小さな声で、しかし、きっぱりとこういった。

「でも、PGAツアーに出たいし、マスターズに出るのが夢なので、なにがあってもがんばるしかないです」

 その後、今田は大学を離れ、99年にプロ転向した。そして、草の根のミニツアーや米ツアーの下部ツアーであるネイションワイドツアー(当時)に出はじめたと聞いた。まずは下部ツアーでプロとしての生活に慣れて、秋のQスクールで一発合格、来年からは米ツアー出場だろう、とわたしはそのとき思った。だが、それから5年以上も今田が下部ツアーに居座ることになろうとは、本人さえも想像すらしていなかったことだった。

 今田が下部ツアーで2年目を迎えていたころ、試合会場に取材に行ったことがあった。下部ツアーは米ツアーと同じぐらい全米各地を転戦する。だが米ツアーのようにオフィシャルカーの貸し出しがあるわけではなく、自分でレンタカーを借りる。そうやって自前のものが増えるぶん、転戦費用はかさむ。その反面、賞金は当然ながら米ツアーとは桁違いに低い。経済的に苦しくなるのは下部ツアー選手たちに共通する悩みだ。その苦しい生活の中で、彼らはハングリー精神や忍耐を覚えていく。


「思い上がり」が原因だった…

 下部ツアーでの今田の1日をひととおり取材し終えて夕食に誘ったら「でも今夜のうちに車で次の試合会場へ移動するので、ゆっくり食べていられないんで……」。でも、どっちにしてもなにか食べるんだから、そこらへんでさっさと食べて、すぐに出発したらどうかと提案すると、今田はうなずいた。

 本当に「そこらへん」にあった、チャイニーズレストランに入り、電話で場所を伝えると、今田は自分の車ですぐさまやってきて、店の前に路上駐車した。その車をよくよく眺めてみたら、片方のドアミラーが取れてなくなっていた。愛車の傷み具合から、どれほど多く陸路で転戦しているかが伝わってきた。「はい。車のほうが安いし、何人かで相乗りすれば、ガソリン代も安くなるし、交代で寝れるし」。

 ごく平凡なマーボ豆腐とか、チャーハンとか、そんなものを数皿注文したら、今田はあまりしゃべらず、黙々と食べ、「ごちそうさまでした。じゃあ、行きます」といって、ドアミラーの取れた車に乗り、去っていった。

 かつて、AJGA時代に「タイガー・ウッズか、リウジ・イマダか」と呼ばれたスター選手が、プロ転向したら下部ツアーをオンボロ車で転戦しているという現実。ああ、これが米国のプロゴルフ界の厳しさなんだ。そう思い知らされた瞬間だった。

 それから、さらに2年半ほど経過した04年の秋。その年のネイションワイドツアーで2勝を挙げた今田は、同ツアーの賞金ランキングで3位になり、05年の米ツアー出場権をついに獲得した。

 喜びを聞かせてもらおうと思って取材を申し込んだら、やってきた今田は、うれしさを笑顔ににじませながらも、やっぱり小さな声で、しかし、とてもしっかりとした口調でこういった。

「思い上がっていたのかな」

 思わず、「えっ?だれが?竜二くんが?いつ、どんなふうに?えっ?」と聞き返した。すると、今田は一語一語を噛み締めるように話しはじめた。

「ジュニアのころから、自分ならすぐにでもPGAツアーに出られると思っていた。自分にそれができないわけがないと。でも、いざプロの世界に来てみたら、想像以上に層は厚くて、かべは高かった。世界にはゴルフのうまい選手が山ほどいて、僕はその中のほんのひとりにすぎないってことを思い知らされた。以前の僕は、やっぱり思い上がっていたのかな」

 小さな声だった。けれど、長い間考えて考え抜いて悩んだ挙句、やっと気づいた結論が自分の過信だったという今田の告白は、現実を直視し、真正面から受け止め、克服できたという力にあふれていた。厳しい現実の世界で生き残ったというサバイバル性にあふれていた。

 だから、この選手はおとなしそうだけど、小声だけど、きっと大丈夫。きっと米ツアーでがんばっていける。あのときわたしは今田に「おめでとう」をいいながら、そう信じた。

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