連載コラム


自分のスタイル

2015/1/29 21:00

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迷いながらも自分のやり方を続ける



 1985年からの3年間は、毎年1勝ずつを積み上げられた。ツアーで戦うプロとしてのノルマははたして「一歩ずつ前に」進んだのに、その歩幅の広さには自信がもてなかった。

 初めての賞金王のチャンスを逃した84年。その反省から「もっと強くなる」ためにいろいろなことにチャレンジした。そのわりには成果が上がらなかったんだ。

 むずかしい時期だった。「どうすればいいか」で迷った。自分のやり方で強くなる方法を模索する。それを続けるべきかどうかで悩んだのだ。プロは結果がすべて、という。僕も結果を重視する。結果で自分のやり方を判断してきた。

 たとえばスイングづくり。「○○をすればもっとよくなる」とアドバイスされたり、思いついたりした、とする。すぐに試してみて1球目で素晴らしいショットが出た、としよう。ゴルファーとしては「これはいい!」とうれしくなる瞬間だよね。

 でも、プロとしては、この段階では喜べない。しばらく打ち続けて、8割以上素晴らしい球筋が打てたら「採り入れよう!」と判断できる。高い確率でナイスショットを繰り返せるものだけに価値があるからだ。もちろん、結果がよくなる確率が低ければ採用しない。なかったことにして忘れてしまっても問題はない。

 こういう取捨選択を続ければショットは必ずよくなる。結果がよくなる方法を積み重ねれば悪くなるリスクをなくせるからだ。

 むずかしいのはナイスショットが6割くらい出る、というとき。採用するかしないか。いくかやめるか。そんな迷いをもってしまう。85年から87年までは、そういう悩みを抱えた時期だった。それでも自分なりのやり方を続けた。迷いはあったけど、それを振り払おうとしたら練習量も自然に増えた。

 1988年。その成果がやっと出た。シーズン4勝をあげることができたのだ。


4年ぶりの賞金ランク2位。しっかりした手ごたえ

 この年は開幕から10試合で予選落ちゼロ(第3ラウンド後の棄権が1回)。ベストテンには3回入る順調なスタートを切れた。
 
 11試合目は84年にプロ2勝目をあげた『札幌とうきゅうオープン』(6月9〜12日)。ここでシーズン初Vをあげられた。通算7勝目。同一試合の複数優勝も初めてだった。

 第2ラウンドを終わったときは18位タイ。この時点では遠かった優勝をグッと引き寄せたのは第3ラウンドだった。3連続バーディ3回を含めて10バーディ・2ボギーの8アンダー、64。1打差をつけて単独トップに立てた。最終日は序盤でふたつのボギーを叩いたが、8番でバーディを獲ると9番ではイーグルがきた。バックナインはすべてパーだったが、それでも3打のリードが残った、余裕のある優勝ができた。

 この年の2勝目は真夏の『NST新潟オープン』(7月28〜31日)だった。毎年のように暑さでダウンするキャディや選手が出るハードな試合だった。

 初日は2アンダーで11位タイ。だが2日目に66を出してトップに立ち、そのまま首位を譲らずに優勝することができた。2打のリードでスタートした最終日は前半を2バーディ、2ボギー。後半はまたすべてパー。終わってみれば2位との差はまた3打あった。

 そして、この年の3勝目は『全日空オープン』(9月15〜18日)であげた。舞台は札幌GC由仁コース(北海道)。いつもの輪厚コースが改修工事で2年間だけ由仁での開催になった、その2年目だった。

 この試合は激戦になった。初日に63、9アンダーのビッグスコアを出してトップに立ち、2日目は69、3日目は73。ジリ貧気味ながら11アンダーで首位を守って最終日を迎えた。スタート時の2位との差は2打。長兄ジャンボ、吉村金八、豪州のブライアン・ジョーンズの3選手が9アンダーにいた。その下は5アンダーだったから、マークすべきはこの3人だった。

 なんとしてもアンダーパーでまわりたかったけどダメだった。前半は1バーディ・2ボギー。後半は2バーディ・2ボギー。1オーバーの73で、ジョーンズに追いつかれ、プレーオフにもつれこんだ。ちょっと嫌な予感がした。

 プレーオフはこれが2度目の経験。1度目、つまり初めてのプレーオフは4カ月前の『三菱ギャラン』だった。場所は大沼レイクGC。同じ北海道で、相手も同じジョーンズだったんだ。そのときも3日目にトップに立ったのに、最終日に追いつかれていた。展開も同じだし、勢いも追いついてきた相手にある。

 だけど「同じ相手に2連敗はできない」と思った。武者震いしながらプレーオフに臨んで、初めてのプレーオフ優勝を飾ることができた。

 最後の4勝目をあげたのはシーズン大詰めのビッグイベント『ゴルフ日本シリーズ』だった。最初の2ラウンドは関西(よみうりGC・兵庫県)、後半の2ラウンドは関東(東京よみうりCC・東京都)で行われていた時代で、1ラウンド目は69で2位。2ラウンド目の70でトップに立って東京に移動した。3ラウンド目は68。トップは守ったがリードはわずかに1打。2位タイには青木功、中村通のふたりの強敵選手がいた。

 それで気合が入ったのか、最終日は17番まで5バーディ・ノーボギーのほぼ完ぺきなプレーができた。18番パー3はボギーとしたが2位の青木さんに5打差をつけて優勝できた。通算10勝目を初めて『日本』の名前がついたタイトルで飾れることもできたのだ。

 この年の獲得賞金は8378万円あまり。賞金ランクは84年以来2度目の2位。賞金王は年間6勝をあげたジャンボが獲得していて、4000万円以上の大差をつけられていた。賞金王争いはできなかったが、84年とは比べ物にならない、しっかりした手ごたえを感じていたんだ。


日本のトップの一角を占める実績を残した3年間。しかし……

 総合力で勝負すれば、だれにも負けないゴルフができる」。感じたのは、そういう手ごたえだった。「自分のゴルフのスタイル」が見えはじめてきたからだ。

 初優勝した年にいきなり賞金王争いに絡んだ84年は無我夢中。最後はプレッシャーという暗闇のなかで両手をブンブン振り回していた。そんな感覚だった。それに比べたら、このころは「戦い方」というものがわかってきた。

 パッティングはそんなにうまいほうじゃない。でもショット力、飛ばしとコントロールを含めたショットの力はかなりのレベルまで上げてこられた。

 あとはコースマネジメントの力をどれだけ発揮できるか。その時々の状況に合わせた攻め方が適切に選択できれば他人には負けない。絶対に自分のほうがいいゴルフができる。そういう自信を感じていた。

 ごくわかりやすくいえば「どっしり」してきた。それがプレーの安定感を大きく高めてくれたからこそ4勝できたんだ。そのどっしり感をさらに強く感じたのが翌年。89年だった。

 開幕戦の静岡オープンは2位タイ。最終日は3打差の4位タイからスタートして6バーディ・3ボギーの69と追い上げたが、鈴木弘一選手に1打届かなかった。

 だが翌週の『テーラーメイド瀬戸内海オープン』ではその雪辱がはたせた。3日目に69をマークして湯原信光選手とトップに並んだ。最終日は3バーディ・2ボギー。なんとかアンダーパーをマークすると、2打差での優勝が待っていた。これが通算11勝目。幸先のいいスタートダッシュができたわけだけど、あとが続かなかった。シーズン2勝目はあげられなかったんだ。

 それでもこの年の賞金獲得額は7969万円あまり。前年より400万円近く減ったのは、平均ストロークが71.53から71.65に下がったからだ。プロの数字は正確にゴルフの状態を表すものなんだよね。ただ、前年の4勝が1勝になったわりには減り方が少なかったのも、平均ストロークの下がり方がこの程度で済んでいたからだ。

 そのおかげで賞金ランクは2年続いて2位だった。この年も賞金王はジャンボが獲っていて金額の差は前年より1000万円ほど少ない3000万円くらい。

 この結果からふたつの思いが生まれた。

 ひとつ目は反省点。勝ち方が下手だった。「いいゴルフを、やってもやっても勝てない」というジレンマがあったんだ。

 もうひとつは「それでも最後までハイレベルな成績を残せた」ことへの自信。この年は26試合に出てベスト10入りが11回。優勝を含めた3位以内は6回あった。「どっしりしてきた」という感覚がさらに強まったんだ。

 そのことは次の90年の成績でも証明できた。シーズン初優勝は5月の『日本プロマッチプレー』(5月10〜13日)。開催コースは『グリーンアカデミーCC』(福島県)。決勝戦の相手はかのブライアン・ジョーンズ。因縁の相手だったが6アンド5の大差で下すことができた。通算12勝目はふたつ目の『日本』タイトルになった。

 シーズン2勝目は秋の『ジュンクラシック』(9月20〜23日)。初日68、4位タイからスタートして2日目の66でトップに立った。3日目は69で木村政信選手にトップタイに並ばれたが、最終日は70。2位の金子柱憲選手と1打差ながら11アンダーで逃げ切った。

 この優勝はよく覚えている。この年の6月に生まれた長男を抱き上げて記念写真に納まった記憶があるからだ。またこの試合は前年に次兄ジェットとプレーオフを戦って敗れていた。ジェットに対してはプロになる前からライバル視して、自分のファイトをかきたててきた。でもプレーオフで雌雄を決することになったのは複雑な気持ちだった。またこの試合はジャンボも何度も勝っている。尾崎兄弟にとっては相性のいい試合だったという点も記憶に残っている。

 そして、この年も『ゴルフ日本シリーズ』に勝つことができた。前半の関西ラウンドは7位タイ。東京に移った後半は3ラウンド目に64をマーク。通算12アンダーまで伸ばして中嶋常幸選手、トミーとトップタイになった。

 最終ラウンドはトミーとの一騎打ち。前半は34対37で3打のリードを奪ったが、後半に入って僕はバーディが獲れなくなった。11番パー5ではボギーも叩き、バーディのトミーとの差が一挙に1打に縮まった。さらに僕はチャンスホールの17番パー5もパー。きっちりバーディを決めたトミーに並ばれて、通算13アンダーでプレーオフになった。サドンデスの決着がついたのは、3ホール目の16番パー4。僕のバーディだった。

 トミーは僕より2歳年上だが、ジュニアのころから脚光を浴びてきた。このときまでに賞金王を4回も獲得し、日本タイトルも総なめにして海外ツアーでも実績を残してきた。プレーオフもこの時点までは4勝2敗。88、89年と勝てない年が続いたが、この年は3勝して見事にカムバックしている。

 そのトミーにプレーオフで勝てたことは、強い手ごたえになった。結局この年はシーズン3勝、通算14勝。獲得賞金は8500万円を超えて賞金ランクは4位。平均ストロークは過去最少の71.25をマークできた。

 数字的には十分なシーズンになったが、まだ満足はできなかった。88年からの賞金ランクは2位、2位、4位。完全に日本のトップの一角を占める実績を残した3年間だったが、その一方でこういう思いが日増しに強くなっていった。

 「賞金王を獲りたい。1位で終われないなら、2位も4位も同じことだ」

 そのためにはなにが必要なのか。自分にはなにが足りないのか。必死に鍛錬を続けてきただけに、その答えは簡単には見つかりそうにないから、こんな弱音も吐きたくなっていった。

 「永遠にトップには立てないのかもしれない。それが自分の運命なんだろうな」

 だが、そうして迎えた次の91年。諦めたはずのトップの座につくチャンスが巡ってきたのだった。(続く)





8割以上素晴らしい球筋が打てたら「採り入れよう!」と判断できる。もちろん、結果がよくなる確率が低ければ採用しない。こういう取捨選択を続ければショットは必ずよくなる。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。今季はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。

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