夢かない、また夢の途上
思い浮かぶのは「くやしいです」
5年超に及んだ下部ツアー生活から抜け出し、2005年に晴れて米ツアーデビューをはたした今田竜二。以後、現在に至るまでの彼との思い出を、この誌面で書き尽くすことは到底できないけれど、目を閉じて自然に浮かんでくるものを綴ってみようと思う。
最初に浮かんできたもの、それは今田の優勝シーンではなく、惜敗シーンだ。毎年、初夏の香りがする5月にジョージア州アトランタ郊外のTPCシュガーローフで開催されていたAT&Tクラシック。その07年大会で今田は惜敗した。
最終日を首位タイで迎え、最終組でスタートした今田は、終盤でザック・ジョンソンに1打リードされたが、18番でバーディを奪いプレーオフへ持ち込んだ。しかし、その1ホール目となった18番で今田は左ラフからグリーンを狙った第2打を池に落とし、米ツアー3年目にしてようやく目前まで迫った初優勝を惜しくも逃した。
18番グリーン奥のインタビューエリアで米メディアに囲まれた今田。こういう場合の囲み取材は、まず米メディアによる英語での囲み、そのあとに日本メディアによる日本語での囲みという具合に、暗黙の了解で順番が決まっている。順番が逆になることもあるのだが、今田は英語が流暢だと知られているためか、米メディアたちが「英語が先だ」とばかりに勢いよくなだれ込んだ。わたしは今田の真うしろにあった大木の幹に引っつくように立ち、黙って見守っていた。
「2オンを狙わず、刻もうとは思わなかった?」と米国人記者からたずねられると、今田はきっぱりと「その考えはまったくなかった」といいきった。毅然とした態度はくやしさをこらえ、くやし涙を堰き止めるための防波堤のように見えた。
米メディアの取材が終わり、日本メディアの順番が来た。普段の今田なら、このタイミングを境に冗談めかした口調に変わったりもするのだが、このときばかりは、ずっと敬語調、断言調を崩さなかった。
「狙う以外は考えなかった。だから、もしも刻んでいたらというタラレバはない。狙うという判断には100パーセント満足。でも、池に入れてしまったことにだけ、悔いが残ります」
すべての取材が終わり、ロッカールームへ戻ろうとしていた今田に再度、声をかけた。
「くやしいね」
数秒の間を置いて、今田の小さな声が戻ってきた。
「ここまで来て勝てなかった……やっぱりくやしいです」
あのときの「くやしいです」は、以来ずっとわたしの鼓膜に録音されたままだ。
初優勝。そしてマスターズへ
私事で恐縮だが、わたしががんと診断されたのは、それから半年後の秋だった。日本で手術を受けるために帰国すると伝えると、今田は「今夜、メシ行きましょうよ」と誘ってくれた。現場に来ていたほかの日本人メディアにも今田が声をかけてくれたようで、8人ぐらいが焼肉屋に集まり、壮行会を開いてくれた。
お店では、あえて病気の話はせず、楽しい話題に終始した。だが、店を出たところで今田は神妙な顔をしながら近寄ってきた。
「手術がんばってください」
そういいながら彼はわたしの右手を両手で包んだ。「うん、竜二くん、ありがとう」。握手を返しながら、わたしは溢れそうになった涙をこらえた。
翌年の春、今田は因縁のAT&Tクラシックで初優勝を遂げた。開口一番、彼が発したのは「久しぶりに勝ちました」という言葉。米ツアーでは初優勝なのに「久しぶり」といったのは、自分が歩んできたゴルフ人生のすべてを彼が大切に思っていたことの証だ。
ジュニア時代、カレッジ時代、下部ツアー時代に挙げてきた数々の勝利。そして、米ツアーでついに達成した初優勝。「どんなツアーのどんな大会であっても勝つのは大変なこと。どこで挙げても勝利は勝利」。未勝利だった間、彼はこのフレーズを呪文のように唱え続けてきたのだろう。
この優勝で出場資格を得た09年マスターズは忘れることのできない大会になった。香苗夫人がバッグを担いで出場したパー3コンテスト。今田の弾ける笑顔を眺めながら「夢を叶えるって、すごいことだな」としみじみ思った。生き生きした表情でプレーする今田がとても大きく頼もしく見えた。
そして2日目の18番は圧巻だった。最低でもパーを獲らなければ予選通過はできないという状況で、今田の左ラフからの第2打は絶対に入れてはいけないバンカーにつかまった。だが、小技のうまさで定評のある彼は、グリーン上の1点を狙ってウエッジを砂に打ち込み、躍り出たボールは半円を描きながらコロがってカップに近寄っていった。残った2メートル半のパーパットを捻じ込んだ瞬間、今田は右手の拳を握りしめて力強いガッツポーズ。見守っていたオーガスタのパトロンたちは一斉に立ち上がり、スタンディングオベーションで彼を讃えた。
それが決勝進出を決めたパットだということはだれもがわかっていたが、18番グリーン周辺はまるで今田がウイニングパットを沈めたような興奮に包まれた。「マスターズに出て、オーガスタで4日間プレーするのは夢だったので」と報道陣に応えた今田はいつまでも興奮冷めやらぬ様子だった。
彼がそんなにも喜んだわけは、じつはもうひとつあった。幼い今田を広島から米国へ送り出し、プロになるまでの間、経済面を含めて支え続けてくれた父・隆史氏への想いだ。今田があのガッツポーズを一番見せたかったのは、体調不良で大会直前にオーガスタでの生観戦を断念した父親だったのだ。
「でも日本でテレビで見ていたはずです。14歳でこっちに来させてもらって、ホント、ありがたい……涙が出てきそうでした」
オーガスタのクラブハウス前に広がるインタビューエリアの片隅。そういいながら溢れ出しそうな涙をこらえた今田を目の前にして、わたしも涙を必死にこらえた。
もう辞める……いや、もう少し
ちょうど、祭りのあとのようだった。4月のマスターズが終わり、5月になって会ったとき、今田は意外な言葉を口にした。
「なんか、マスターズに出るっていう夢が叶ってよかったけど、なんとなく、目標がなくなっちゃったっていうか、これからなにを目指していこうかなって……」
そんなものは、いくらでも設定できるではないかと励ましてみた。マスターズ出場が叶ったのだから、次はマスターズ優勝を目指したらどうか。米ツアー2勝目でも、メジャー優勝でも、「目指すものは、いっぱいあるでしょ?」
しかし今田は「うーん、そうなんですけどね……そういう気にならないっていうか……。元々、もっと大きな夢を抱いておけばよかったんですよね。一生かかっても叶えられるかどうかってぐらいの夢のほうが、ずっと目指してられるから」
その言葉を彼がどこまで本気でいっているのかが、そのときはわからなかった。だが、それからというもの、プレーぶりにも表情にも徐々に覇気がなくなり、成績も下降していく今田を目にした。彼は本当に、目標と進むべき方向を見失いかけているのかも、と思えてきた。
それでも、コトあるごとに気合いを入れ直し、必死に前を向こうとする姿勢は伝わってきた。だが、12年シーズンが終わったとき、彼は米ツアー8年目にして、ついにシード落ちとなった。
アテスト後、ギャラリースタンド下の小さな隠れ家みたいなスペースで、ふたりでひっそり話をした。「いつかはこんな日が来るという覚悟のようなものは心のどこかにあった」と彼はいった。だが、下部ツアーのことは全然考えずにやってきたのだ、と。
「下部ツアーどうこうより、考えていたのは、もう辞めようかなってことです」
プロゴルファーを辞めたい?ゴルフを辞めたい?どこまで本気でいっているのか、またわからなかった。
「こんな苦しいこと、なんでずっとやってるんだって感じで……。この1年間、いや1年どころか、08年に優勝してからのこの4年間、ずっと思うような成績が出せず、期待に応えられずに来た……」
今田もわたしも声を詰まらせ、沈黙の数秒間が流れた。だが、お互い、どうにか気を張り直し、彼はプロゴルファーとして、わたしはプロの取材者として、なんとかインタビューを完了させた。
数週間後。今田から携帯にテキストメッセージが来た。
「もう少し、がんばってみようかなと思います」
あれから2年。彼はいまもゴルフクラブを振っている。米ツアー、下部ツアー、日本ツアー、戦うことができる場へ赴き、ゴルフクラブを振り続けている。「もう少し、がんばる」はいまの彼の新たなる夢。復活への挑戦、米ツアーへの再挑戦。
今田竜二は、いまなお夢の途上だ。
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