勝ちにいかずに優勝が転がり込んでくるのを待つ
どこを目指して歩きはじめるのか。人生はそこからはじまるものだと思う。
僕は「プロゴルファーとして生きる」と決めたときから「自分の人生」を歩みはじめた。研修生になり、プロテストに合格して生きる糧を得る。それで家族を養い、家を構えて子どもたちを一人前に育てる。そう考えた。
幸いなことに、目標はひとつずつ達成できた。20歳でプロになり、25歳でシード権を獲得。27歳で結婚もできた。そしてその間に、さらなる3つの目標ができた。
・優勝したい
・日本一のタイトルがほしい
・賞金王を獲ってみたい
プロになる前は夢だったことが具体的な目標になったんだ。妻・世志江との結婚を契機に、その気持ちが強まった。すると結婚式を挙げた翌週に初優勝。それから4シーズン後の1988年には『ゴルフ日本シリーズ』に勝って、初の日本タイトルも手に入れた。
残る賞金王だけには手が届かなかった。84年から89年までの6年間で賞金ランク2位が3回。どうしても1位になれなかったんだ。
「がんばっても2位どまり。そういう運命なのかもしれない」。そう思ったりもしたが、ゴルフへの自信は増していた。もっとも重要な平均ストロークもよくなっていて、90年(賞金ランク4位)は過去最少の71・25をマークできた。
「このまま一歩ずつがんばっていこう。それが不器用な自分の生き方なんだろう」
そんなことを思いながら迎えたのが1991年だった。
5月に35歳になるこの年も、ゴルフは好調だった。開幕第2戦の『インペリアルトーナメント』(3月14〜17日、セベ・バレステロスGC、茨城県)は1打差の2位。4月の『ダンロップオープン』(4月25〜28日、茨城GC、茨城県)と翌週の『中日クラウンズ』(5月2日〜5日、名古屋GC和合、愛知県)はどちらも4位タイ。
その後も成績は安定していた。開幕から15試合でトップ10入りが7回あったが、勝つことはできていなかった。それも1度は首位に立ちながら、試合を終える前に陥落することが何度もあったんだ。『インペリアル』はその典型。トップタイで最終日を迎え、最終ホールでダボを叩いてトップから滑り落ちてしまった。『ダンロップオープン』も最終日を首位タイでスタートしながらスコアを伸ばせなかった。『中日クラウンズ』も2日目を2位で決勝ラウンドに進んだのに、4位タイで終わってしまった。
勝てなければ賞金王にはなれない。「なぜ勝てないのだろう?」と考え続けても答えは出なかったので、あることを試してみることにした。
「勝ちにいかずに、優勝が転がり込んでくるのを待つ」。そんな気持ちでプレーしたのだ。
すると、本当にそういう展開になった。16戦目は『日経カップ』(7月25〜28日、夜須高原CC、福岡県)。85年に通算4勝目を挙げたゲンのいい大会だ。開催コースは変わっていたが、再度優勝することができたのだ。
初日は67の3アンダー(パー70)で3位タイ。2日目の66で山本善隆選手と首位に並んだ。3日目は雨で中止。54ホールに短縮された最終日は70のパープレーとスコアを伸ばせなかった。それまで勝ちを逃してきた試合と同じような展開になったものの、逆転はされなかった。板井栄一選手に途中でトップを奪われたが、その板井選手が18番でダボを叩いた。僕は1打差のトップに立ちながら18番をボギーにしてプレーオフになった。
1ホール目は18番。僕は再びボギーにしたが、板井選手も再びダボ。2戦目の『インペリアル』の逆のパターンで勝てたんだ。通算15勝目だった。この優勝で賞金ランクは5位に浮上した。
だがそのことよりも、シーズン初優勝に安堵した。そしてここから勢いがついた。
シーズン2勝目で賞金ランクトップに
シーズン2勝目は『サントリーオープン』(9月12〜15日、習志野CC、千葉県)だった。この試合は「4日間で20個のバーディを獲る」ことをノルマにした。それが達成できれば優勝できる、と予測した数字だった。
20個のバーディは1日平均で5個。パー5のホール×4個に加えてもう1個獲らなければならないが、それでも控えめな目標だった。過去の優勝者は20個以上のバーディを獲っているケースがあった。それを目指さなかったのは、この年は天候悪化の予報があったから。好天のときよりもバーディ数が減ると予測したのだ。
このとき「4日間で○アンダー」というようなスコアを目標にしなかったことにはふたつの理由があった。
ひとつは、スコアを目指すと無理攻めをしやすくなること。とくにこの試合の舞台は、研修生時代からまわり尽くしてきた僕のホームコースだ。攻め方はわかりすぎるほど知っていた。それだけに、試合では気負いすぎる傾向があったんだ。そうならないように「獲るべきところでバーディが獲れればよし」という冷静なプレーをする作戦を立てたのだ。
もうひとつは、流れに左右されないこと。スコアを目指すと、好調なときほど「ボギーを叩きたくない」という消極的な気持ちが生まれやすい。逆に不調なときは「もっと伸ばさなければ」と無理攻めをしてしまう。どちらもよい結果につながりにくい傾向がある。
「4日間20バーディ」なら、バーディを獲ることに集中できる。消極的にならず無理攻めもしないでバランスのいいプレーをする計画だった。
試合がはじまると、初日、2日目は6個ずつバーディを獲った。スコアを8アンダーまで伸ばし、メジャー3勝のラリー・ネルソン選手(米国)と首位に並んだ。3日目のバーディは4個に減り、72で単独3位に後退したがまだトップとは1打差だった。
僕は「最終日はあと4個のバーディを目指して強気のパットで攻める」と公言した。
その最終日は完ぺきなプレーができた。4バーディ、ノーボギー。ジャスト20バーディでトータル12アンダー。2打差で勝つことができた。通算16勝目だった。
この優勝はふたつのものをもたらした。
ひとつは、兄弟3人が同一大会に優勝した3つ目の試合(『日本シリーズ』『ジュンクラシック』に次ぐ)ができたこと。長兄ジャンボ、次兄ジェットはすでに『サントリーオープン』で優勝していたんだ。
もうひとつは、僕のシーズン獲得賞金額が5910万円あまりになり、賞金ランクのトップに立てたことだ。トップだったロジャー・マッカイ(豪州。ここまで2勝)を366万円ほどの差で逆転できた。15戦まで未勝利だったのに、16戦目からの2回の優勝で賞金王を狙えるチャンスがつかめたのだ。ちなみに賞金ランク3位は中嶋常幸選手(1勝)で5321万円あまり。また3年続けて賞金王を獲得中の長兄ジャンボはここまで1勝で賞金ランク5位だったが、一番の強敵だった。
そしてこのあとの賞金王レースは、最後までこの4人の争いになっていった。
『サントリーオープン』最終日に完ぺきなゴルフができたように、ゴルフの調子は本当によかった。だから、その後に続く秋のビッグトーナメントシーズンでも、さらなる勝ち星を挙げることができるだろうと考えられた。
最初に賞金王を争った84年は未熟すぎて、プレッシャーでわれを忘れた。あれから7年。たくさんの経験を積み、自分のやり方で多くの技も身につけてきた。もうあのころの自分ではない。賞金王を獲れるかどうかはわからないが、さらなる勝ち星を挙げて堂々とシーズンを戦っていけるだろう。そういう自負をもっていた。
ところが、そういう展開にはならなかった。このあと出場した8試合では、優勝を争うこともできなくなったのだ。
本当に、ゴルフというヤツは厄介だと思った。高い目標を掲げなければうまくなれない。地道な努力を続けて自信をつけなければ、プレッシャーに押しつぶされる。だが、努力してうまくなれたと思い、しっかり勝てた直後に、勝ち星から遠ざかってしまったのだ。
自信は絶対に必要。でも過信はいけない。高い目標は大切。でも欲を出しすぎてはいけない。そうした必要なものといけないものとの線引きをどこですればいいのか。それがわからなくなった。
なんとしても賞金王になってみせる
そうしている間に、ライバルたちは勝ち星を挙げていった。ジャンボは9月の『ジュンクラシック』に勝ち、中嶋選手は10月の『日本オープン』を制した。マッカイ選手も11月に『太平洋マスターズ』でシーズン3勝目を挙げた。
ひとり、自分だけが置いていかれた感じだった。だが、シーズンの大詰に脱出のチャンスがやってきた。『カシオワールドオープン』(11月28〜12月1日、指宿GC、鹿児島県)だ。
初日は1アンダーの71で25位タイのスタートだったが、2日目の67で6位タイに浮上。3日目にはベストスコアの64で1打差の単独トップに立てたのだ。
1打差の2位はラリー・ネルソン。前週の『ダンロップフェニックス』で4人のプレーオフを制したばかりという絶好調ぶりだった。ジャンボは6位タイ。中嶋、マッカイ両選手は28位タイ。でも他人は関係なかった。この試合に勝たないと賞金王になることが非常に困難になる。僕には勝つしかない、という最終日を迎えた。
その最終ラウンド。前半は2バーディ、1ボギーと伸び悩む。ネルソンは4バーディ、1ボギーで逆転されてしまった。さらには10番パー4でボギーを叩いてしまった。
「オレの日じゃないのかな」という思いが頭をよぎった。だがそれを認めたら優勝には手が届かなくなり、賞金王が遠ざかる。だから「辛抱強く待とう」と気持ちを切り替えることにした。
「18番は2オン可能なパー5。そこまで1打差でついていけば、運がこちらに向くかもしれない」と考えることにしたんだ。一縷の望みに願いを託した。そんな心境でそこからのプレーを続けていった。
その謙虚な気持ちが展開を変えた。11、13、16番とバーディが獲れて、ボギーを打つ気配が消えたのだ。それが相手へのプレッシャーになったのか、ネルソンが17番パー3で池に落としてダボを叩いた。「運が向いてきた」ときだった。僕はトップに立って18番を迎え、2オン2パットのバーディで優勝をつかむことができた。通算17勝目だ。
優勝賞金2520万円を加えて、年間獲得額は自身初の1億円超えになった。そして賞金ランクもジャンボ、中嶋選手を抜いて2位に浮上した。トップを行くマッカイ選手との差は744万円あまり。残り2試合で逆転できるところまでこぎつけた。
この優勝で僕はさらにゴルフのむずかしさを知った。
勝つ気で臨んだ最終日は、序盤でスコアが伸ばせずにあきらめかけた。だが、そこからねばろうと思ったらスコアが伸び、最後に運までが自分のほうに向いてきた。
どうしてこんなふうに、思いとは裏腹なことがたくさん起きるのだろう。なぜゴルファーは波のうねりのような展開のなかで翻弄されるのだろうか。その原因が解明できたら、僕のゴルフはさらに強固になるかもしれない。もし解明できなくても、波の間に沈むことがないような強さを身に着けたい。そういう気持ちが強くなった。そして、こう思った。
「そのためには、今回のチャンスは絶対に手放せない。なんとしても賞金王になってみせる」
そんな決意をもって、僕は翌週の『ゴルフ日本シリーズ』に臨んでいった。これまでに2勝している得意な大会。勝って賞金王を決めるつもりだったのだ。
だが、そこにも波乱が待っていた。僕は人生最大級の運命の波に飲み込まれることになった。試合がはじまる前日。故郷の父が突然この世を去ったのだ。(次号に続く)
どうしてこんなふうに、思いとは裏腹なことがたくさん起きるのだろう。なぜゴルファーは波のうねりのような展開のなかで翻弄されるのだろうか。その原因が解明できたら、僕のゴルフはさらに強固になるかもしれない。
尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。今季はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。
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