スター選手から、いつしか心の友へ
海外で出会った日本人とは、とくに仲よしになるという話、聞いたことはないだろうか。異国の地で一緒だったから。困っていたとき、助けてくれたから。そんな日本人どうしが親友になったり、男女であれば結婚したり、そういう話は結構多い。海外で出会うと、同じ日本人どうしというだけで妙に親近感を抱いたり、仲間意識が芽生えたりするのだ。
そのせいなのかどうか、わたしも米ゴルフ界を取材しながら出会った日本人選手たちと、ずいぶん親しくさせてもらってきた。
だが、どんなに仲よしになったとしても、選手とジャーナリスト、取材される側と取材する側、その間に1本だけは線を引くべきだとわたしは思ってきた。だから、仲よしであっても、友達とはちょっと違う。そんな距離感を保つべきだと、ずっと思ってきた。いまでもそう思ってはいる。
けれど、たった一度だけ、いや、たったひとりだけ、その距離感がなくなった人がいる。選手というより、取材する相手というより、友達だと感じた人がいる。それは、現在、日本の女子ゴルフ界を率いる小林浩美だ。
眩しくて大きいかっこよくて遠い存在
初めて小林に出会ったのは、アトランタ五輪開催を控えた1994年、全米女子オープンの会場だった。
当時、渡米したばかりだったわたしは、まだ英語もおぼつかず、米ゴルフ界のことも米社会のことも、なにひとつわかっていなかった。だが、小林はすでに93年のJALビッグアップル・クラシックで米女子ツアー初優勝を遂げており、米国でビッグな成功を収めた彼女は、わたしには眩しくて大きくてかっこいい、遠い遠い存在だった。
「オリンピックでボランティアをやろうと思ってるんだけどね。ほら、わたし、一応アトランタの住人だから。ケケケ」
福島県独特のイントネーションで話す、小林の庶民的な口調に親近感を覚えた。だが、ボランティアなんて言葉をさらっと口にして、おおらかに笑う小林は、わたしにはやっぱり遠い存在に感じられ、羨望の眼差しで彼女を見つめ続けた。すごいなあ。一流になると、自ずと社会貢献をしようとするものなんだなあ。そう思えば思うほど、小林が大きく遠く見えた。
試合中、ロープ内を歩きながら小林の動向をつぶさに観察した。米国人キャディと、当たり前だが、英語で矢継ぎ早にやり取りしている姿がまたかっこよく見えた。いま思えば、その会話は「何ヤード?」「何番アイアン!」といった、きわめてシンプルな英会話だったはずなのだが、当時のわたしの目に映っていた小林は眩しすぎるスターだった。
だから、小林と接するときはいつも緊張気味だった。だが、その緊張は取材を重ねるうちにいつしか心地よい楽しさに変わっていき、暦が2000年代へ突入したころからは、彼女が少しずつ身近に感じられるようになっていった。
なぜ、そんな変化が起こったのか?たぶん、彼女が弱さを見せてくれたからだと思う。
「舩越さん、わたし、そろそろつかれてきた……」
そんな言葉を彼女の口から聞いたとき、ああ、この人も人間なんだ、走り続ければつかれる人間なんだと思ったような気がする。
02年に小林が日本の大王製紙エリエールレディスオープンで優勝したとき、たまたま一時帰国して東京にいたわたしは、彼女の喜びをどうしてもすぐに取材したくて、次に彼女が足を運んだ宮崎まで飛んでいったことがあった。彼女は彼女で優勝直後は多忙をきわめ、とても疲弊していたはずなのだが、わざわざ飛んできてしまった迷惑なゴルフジャーナリストのために滞在先のホテルのカフェで小1時間、インタビューに応じてくれた。
このころは、もうずいぶん親しくなっていた。しかし、まだこのころまでは、取材する側とされる側の線は引いたままだったと思う。
「遠いけど、近い」心から励まされた彼女のひとこと
02年の優勝と前後して、彼女の恋の話を聞かせてもらったことがあった。アトランタの小林の自宅近くで、元々は取材の目的で会った際、「結婚」という言葉を彼女の口から聞かされ、ああ、この人も女性なんだ、好きな人がいるんだと、当たり前だが、実感させられた。その瞬間から、彼女がとても近い存在になっていった。
やがて小林は米国から日本へ引き揚げていった。日本で盛大に行われた結婚披露パーティーに呼んでもらい、幸せそうな彼女の姿を我がことのように喜びながら眺めた。その後、旦那様も含めて、東京で食事をしたこともあった。
そして、彼女のことを「友達なんだ」「この人が友達でよかった」と心の底から思ったのは、ある冬の日のこと。わたしがひどく心を病み、米国から逃げるように帰国して、隠れるように都心のホテルにこもっていたときだった。
あのとき、わたしがSOSを送ったのは、メールでときどきやり取りをしていた小林だった。同じ米国で苦労して戦ってきた彼女なら、きっとわたしの気持ち、辛さ、悔しさをわかってくれるに違いない。そんなふうに本能的に感じたのかもしれない。具体的にどんな文面のメールを彼女に送ったのかは覚えていないのだが、そのメールを見た彼女がほかの用事をやりくりして、大急ぎでわたしのもとに駆けつけてくれたことをいまでも鮮明に覚えている。
小林はわたしの話をずっと聞いてくれた。わたしが滞在していたそのホテルの中で、カフェからレストランへ、レストランからカフェへと2回3回場所を変えながら、わたしたちは長いこと話をしていた。小林はわたしの愚痴にずっと付き合ってくれた。異国で女性がひとりで戦い続ける大変さや孤独感を熟知している彼女は、「がんばれ」とは決していわず、ただただ励まし続けてくれた。
「もう、アメリカでがんばるのは限界。つかれた。あんなに遠い場所でどんなに踏んばったところで、なにかあれば……」
わたしはそんなふうにアメリカと日本の距離の遠さを何度も口にして、「もう嫌だ」「もうダメだ」と弱気な言葉ばかりを連ねていた。しかし、彼女のひと言にハッとさせられたのだ。
「でもさあ、いまの時代、飛行機のチケットとパスポートさえもっていれば、アメリカから日本には、すぐ帰ってこられる。そう思えば、アメリカは近いよ」
物理的には遠いけど、チケットとパスポートさえもっていれば、飛行機に飛び乗りさえすれば、半日もしないうちに日本の大地の上に戻ってこられる。彼女からそういわれて、急に気持ちが明るくなった。
「そっか。そうだよね。アメリカなんて、別に、そんなに遠くないよね。日本に帰りたくなったら、すぐ帰ってくればいいんだよね。永久に戻れないみたいに思うから、余計に遠く感じるんだよね」
わたしがそういうと、小林も「そうよ、そうそう。近い近い。ケケケ」と、明るく笑ってくれた。
なにがあってもすぐ駆けつける一生の友達
「こんな友達がいてくれて本当によかった」
取材対象から友達に変わった唯一の人。わたしにとって小林浩美は、そういう存在になった。
最近は、お互い忙しさにかまけて連絡も取っていない。だが、彼女の活躍や奮闘ぶりは、その都度、日本のメディアの報道で目にしているし、彼女もきっとわたしの記事やコラムをどこかで読んでくれていると思う。
お互いに便りがないのは元気な知らせということにしてしまおう。けれど、もしも彼女になにかが起こり、彼女がわたしにSOSを送ってくることがあったとしたら、今度はわたしが万難を排して駆けつけ、彼女を励ましてあげたい。そして、もしもわたしが再び彼女にSOSを送ったら、きっと彼女は再び駆けつけてくれると信じている。もちろん、そんなふうに彼女を呼び出す緊急事態は、もう起こらないと思う。でも、そんな緊急事態があってもなくても、小林浩美は永遠にわたしの大切な心の友だ。
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