連載コラム


初めての賞金王

2015/3/31 21:00

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賞金王に向かって下を見ず優勝だけを目指す



 ゴルフツアーはシーズン終盤にビッグイベントが待つ。それは1年間の戦いの最後を盛り上げる仕掛けである。そして、その盛り上がりの大きな要素が賞金王争奪戦だ。

 野球にはホームラン王とか打点王、盗塁王などの「王様」タイトルがたくさんある。勝ち負けが団体戦で決まるだけに、埋もれがちになる個人の成績を称えようとするのだろう。

 それに対して、プロゴルフは完全な個人競技。名誉も収入も、全部が個人のものになるからか、個別のタイトルの価値観は小さい。野球選手につく「首位打者○回」という類の肩書がプロゴルファーにはつかないんだ。ある年に「パーセーブ率1位」になって、そのときは覚えてもらえても、すぐに忘れられる宿命がある。

 そんななかで唯一、肩書きとして残るのが賞金王。ボクはこのタイトルがなによりもほしかった。

 ただ、その座は遠かった。

 初優勝した1984年に賞金王を争って2位に終わった。その年を含めて賞金ランクは2位3回、4位1回。あと一歩で1位には届かなかったのだ。

 それだけに2試合を残して―『ゴルフ日本シリーズ』と『大京オープン』―賞金ランク2位に浮上した1991年は「今年こそ!」と意気込んだ。そんな状況で迎えたのがシーズン最後のメジャー大会『日本シリーズ』だった。

 賞金ランク1位のロジャー・マッカイ選手との差は744万円あまり。この年の『日本シリーズ』の優勝賞金は1500万円。勝てば賞金レースのトップに立てる可能性が高かったし、翌週の最終戦『大京オープン』も有利な立場で戦える。

 この時点で賞金王レースの3位は中嶋常幸選手でボクとはおよそ280万円差。4位は長兄ジャンボで480万円あまりの差があった。賞金王の可能性があるのはこの4人。全員が優勝を狙ってくるのは当然だった。なかでも中嶋選手とジャンボは何度も賞金王を獲ってきた大選手。いいようのない怖さがあったが、「下を見ないで優勝だけを目指してプレーしよう」と考えていた。


突然の悲報。兄弟のなかで自分だけ日本シリーズを戦う

 その『日本シリーズ』がはじまる前日。水曜日に悲報が舞い込んだ。ボクはジャンボ、次兄ジェットと東京よみうりCCで練習ラウンドをして、みんなで都内のホテルに戻った。そこで知らされたのが親父の訃報だった。

 ボクの父、尾崎実は元軍人で身体頑健。ずっと元気だった。地元の宍喰(徳島県)ではゲートボールを楽しんでいたし、兄弟のだれかが招待して毎年のようにトーナメント観戦にも来てくれていた。その親父が喘息の発作で入院したのが前日のこと。そして翌日に、帰らぬ人になったという。76歳だった。ほんとうに突然の別れだった。

 すぐに「明日からどうするか」が話し合われた。そうして出た答えは「将司と建夫は『日本シリーズ』を欠場。明朝の飛行機で帰郷して葬儀に参列する。直道は『日本シリーズ』に出場する」というものだった。

 最初はボクも葬儀に出るつもりだった。人として、それが当然だと思っていたからだ。

 だが「なにがあっても勝負を捨ててはいけない」というのが親父のモットー。それを思えば賞金王がかかっているボクとジャンボは、残って戦うべきではないか、という考え方が浮上してきた。

 ただ、ジャンボには長男という立場があった。またジャンボはそれまでに6度も賞金王になっていたが、ボクは一度も獲っていなかった。だからボクはそのチャンスを捨ててはいけない、ということになっていった。

 いろいろと考えていくなかで、ボクは試合に出ることに決めた。「試合に出ても通夜には参列できる。親父の顔を見て、直接お別れがいえる」とわかったからだった。

 初日のプレー後に徳島に飛ぶ。翌日は朝いちばんの飛行機で東京にとんぼ返りする。こうすれば2日目のスタートに間に合う、ということだった。

 「親父に会うことができるなら」と思ったんだ。

 それで一段落したものの、その後に眠ったのか、起きていたのか。さだかではない一夜が明けて、翌朝、試合に出るためにコースに向かった。

 コースではたくさんの人が激励してくれた。また開会式では28人の全選手が1分間の黙とうを捧げてくれた。人のあたたかさに胸が熱くなった。

 でも、半分は苦痛でもあった。「同情されるのは絶対にイヤだ」というボクの性格のせいだった。

 すぐにスタート時間がきたが、心は虚ろなままだった。試合に出るからには全力を尽くす。その姿勢はもちろん変わらなかったが、頭の中が真っ白だったのだ。戦略、目標スコア、1ホールずつの攻め方。どれもまともに考えられなかった。

 この日は賞金王を争うマッカイ選手、中嶋選手と同じ組。ボクはスタート前に自分から「気にしないでよ」といったが、ふたりは気遣いの言葉をかけてくれた。ふたりともやりづらいだろうな、と考えたら、申し訳ない気持ちになった。

 重たい空気のなかでティオフの時間がきた。1番のドライバーショットを引っかけたのを皮切りに、前半は打球が曲がりまくった。前週に優勝した好調さはどこに消えたんだ。そんな悪態をつきたくなる状態だったが、バックナインに入ると落ちついてきて4つのバーディが獲れた(2ボギー)。トータル1アンダーは、首位と5打差の15位タイだった。

 プレー後は羽田空港から徳島へ。実家に急行して、到着したのは午後9時だった。

 やっと親父の顔を見ることができた。言葉では言い表せない感情が、あらためて湧き上がってきた。プレー中はまだ、健在で自分を見てくれている気がしていた。でも、そういう未練心にも区切りがついた気がした。突然の別れを受け入れることができたんだと思う。

 涙は流れたが「泣いた」という感覚はなかった。むしろ、周囲の人が泣いていることに気がついた。その様子を見ていたら落ち着いてきた。自分は告別式に出られないが、たくさんの人が親父を見送ってくれる。そう思えるようになったからかもしれない。

 翌朝は朝日が昇るよりもずっと前に宍喰を出発。徳島空港まで友だちがクルマで送ってくれた。朝イチの便で羽田空港に到着すると、ヘリコプターが待っていてくれた。大会の主催者が手配してくれて、コースまで送り届けてくれたのだ。

 いろいろな助けがあって、ボクはトーナメントを戦うことができている。そのありがたさを改めて心の中で噛みしめた。

 そうしてスタートした2日目は、前日とは別人の完ぺきなゴルフができた。7バーディ、ノーボギーの65。この日のベストスコアでトータル8アンダー。首位タイに浮上した。

 この夜はよく眠ることもできた。前の2晩はほとんど寝ていなかったが、7時間寝たら自然に目が覚めた。スッキリして心と体に戦いのスイッチが入ったことがわかった。

 コースに出向いたときには「もう大丈夫。完全に切り替えられた。ファイトがみなぎっているよ」とコメントできる心境になれていたのだ。

 そうして3日目のプレーがスタートした。1番パー4はボギーを叩いたが、すぐに2番でバーディを奪い返す。その後は1イーグル、5バーディ。18番パー3はボギーにしたが、66でホールアウトできた。トータルは14アンダーまで伸びた。単独首位に立ち、2位の湯原信光選手には3打差がついていた。

 それでも気は抜けなかった。中嶋選手は4打差の3位。最終日は最終組で一緒にプレーすることになった。マッカイ選手は5打差の5位タイ。ふたりとも優勝を狙える位置にいるだけに、簡単には勝てない展開になる可能性が高い。

 「明日は苦しくなるだろうけれど、最後まで自分をはげましながら戦おう」

 そういう気持ちになっていた。どれほど調子がよくても、それが続く保証はないのがゴルフだ。そのことは嫌というほど経験して、わかっていた。


無我の境地。勝って涙があふれた

 だが、その予感は大きく外れた。運命の最終日。この日も前日と同じように1番パー4のボギーからはじまった。それも3パットという悪い流れになるパターンだったが、なぜか動揺はしなかった。3番パー4でバーディを獲ると4番パー5もバーディ。5番パー4は18メートルが入って3連続バーディ。そうして迎えた6番パー5ですごいことが起きた。

 ドライバーショットはフェアウェイを捉えた。2打目を3番ウッドで打つと、引っかかった打球は左の杉林の中に飛び込んでいったんだ。

 「完全なOBだ」と観念した。ところが、打球が林の中の木に当たって右に跳ね戻ってきたんだ。しかも花道近くの絶好のポジションに止まってくれた。

 親父が助けてくれた、というレベルを超えたなにかが起きた。そう思った。そうなったらバーディが獲れないわけがない。3打目を寄せて4連続を決めたが、まだ「勝てた」とは思わなかった。

 バックナインに入って最初のバーディは11番パー5。これは想定内だったけど、13番パー4で25メートルのパットが入ったのはまったくの想定外だった。

 このバーディで「今日は勝つんだな」と思った。勝てると読んだわけではなく、勝ちたいと気負ったわけでもない。「勝つ運命」を感じたんだ。

 このあとのふたつのバーディはダメ押しだった。そしてこの日も66。トータルは20アンダーの大台に乗っていた。2位の中嶋選手、湯原選手とは8打の大差がついていた。

 じつは、プレー中はスコアの計算ができていなかった。トータルスコアがいくつかがわからなくなり、何度かキャディに尋ねたくらいだ。2位との差も計算していなかった。ただただ、1ホールずつ、1打ずつに集中していた。

 全体のプレーの流れを読み、組み立てをつくって勝負する。そういうスタイルとは違うプレーをしていたことになる。

 さらにいえば『賞金王』のことも頭の中にはなかった。この試合に勝って賞金レースのトップには立てても、その時点では決まらない。もう1試合が残っていたのだから当然といえば当然。それでも『賞金王』を欲する気持ちが完全に消えていたのは不思議なことだった。

 無我の境地、というものがあるなら、この日はまさにそういう心境だった気がする。それと、スコアカードを提出するときに涙があふれたのも初めての体験だった。勝って泣く、ということは、ボクにはない。最初で最後のことだったと思う。


大きな山の頂に立ち次はアメリカへ

 考えてみれば、不思議なことだらけの1週間だった。前の週に優勝してやる気に満ちていた。そこに親父の突然の訃報。普通に考えれば、その時点でこのシーズンは終了していたんだよ。

 でもそこから試合に出ることになったのが、不思議のはじまり。心が乱れてよいプレーができるはずがないのに、最後は未曽有の集中力が発揮できた。これも不思議だった。

 なぜそんなことが起きたのか。ボクの優勝を徳島の実家で知ったジャンボのコメントがすべてをいい当てているかもしれない。 「直道がもっている運、親父が授けてくれた運、そして多くのファンが見守ってくれた運が実った」

 その実りをさらに大きくするために、もうひとつやるべきことが残っていた。最終戦の『大京オープン』で賞金王を決めることだ。これは運ではなく、実力でやらなれければならなかった。

 幸いに、それも成し遂げられた。賞金レースで2位につけていたマッカイ選手は体調不良で欠場。3位の中嶋選手は7位で試合をフィニッシュし、ボクは49位タイだった。それでも700万円近くの差で賞金王になれたのだ。

 プロ入りから15年。一歩ずつ前に進みながら目指してきた大きな山の頂に立てた。そういう深い喜びが胸の中に広がっていった。

 そして、これがまた新たなチャレンジへの出発点になった。ボクは米ツアーへのチャレンジを決めたのだ。(次号に続く)





13番のバーディで「今日は勝つんだな」と思った。勝てると読んだわけではなく、勝ちたいと気負ったわけでもない。「勝つ運命」を感じたんだ。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。

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