連載コラム


米ツアーへの胎動

2015/5/1 22:00

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ライバルたちとの戦いで勝ち獲った賞金王



 1991年。父親の通夜に出ながら出場した『日本シリーズ』で8打差の優勝ができた。この年の4勝目、通算18勝目で、初の賞金王も手に入った。

 そんな展開だったから「父親が獲らせてくれた」といわれたりもした。たしかに「親父が死に際に最後のものを残してくれた」という実感はあった。勝負ごとに「もしも」はないんだけど、父親が元気だったら獲れていたかどうかはわからなかった。そんな気持ちになっていたから「父親のおかげ」といわれても嫌な気持ちはしなかった。逆に『いい親孝行ができたな』と考えられたくらいだ。

 獲り方はどうでも、20歳でプロになってから15年間でたどり着いた頂点だ。時間とともに深い喜びを感じるようになった。

 一歩ずつ前に進んできた。少しでもなにかを積み上げようとがんばってきた。そうしてつかんだ賞金王のタイトルは、とても大きな自信をもたらしてくれた。

 自分の立ち位置がひとつ上がった。そういう手ごたえを感じたんだ。

 「慢心している」わけじゃなかった。本来、ボクは慎重なタイプだから「勝って兜の緒を締める」気持ちはいつも忘れない。そのうえでこういう心の作業をしてきた。

 がんばって出した結果を自信にする。そうやって一歩ずつ進んできたんだけど、賞金王の手ごたえはすごく大きかったんだ。

 また、このころの賞金王は自分との戦いというより、ライバルたちとの戦いで勝ち獲る感覚が強かった。その戦いに勝てた満足感が大きかった気がする。

 当時のプロツアーでは、選手たちはバチバチ火花を散らして戦っていた。ギャラリーからは囲いの中のシャモのケンカのように見えたかもしれない。そして、それがおもしろかったのかもしれない。

 いまのツアーはその雰囲気が薄い。それを「物足りない」という人もいるけど、仕方がないんだ。いまは「相手はリスペクトするものだ」の時代。負けた悔しさを人前で見せる選手はいない。勝った相手に手を差し伸べてスッと握手する時代なんだ。それがいいのか悪いのか。決めるのは観る人だからボクにはわからないけど、ボクは悔しさを顔に出すことをいとわなかった。そうして悔しさも前に進むエネルギーにしてきた。

 そんな経験も、すべては賞金王のためにあった。

 「やり残したことはなにもない」

 そういう感慨に浸れたのが91年のオフだったんだ。そしてそれが明けた92年。ボクは米ツアーへの戦いを意識しはじめることになった。


2度目のマスターズが米ツアー挑戦のきっかけに

 92年もいつものようにトレーニングからスタートした。20代のころから、この時期にはカラダを鍛えてきた。最初はジャンボのところで兄弟や仲間たちと汗を流した。30代になってからはひとりで取り組むようになった。1月から2カ月間くらい、カラダをいじめて1年間の戦いを乗りきるカラダの貯金をつくるんだ。

 この年はその前に豪州で行われた『エスバイエルクラシック』に出場している。1月9日から4日間。日本の賞金王ということで、豪州の人気選手との組み合わせになった。優勝争いには絡まないまま試合を終えて、すぐ日本に戻った。

 1月21日には親父の四十九日の法要で徳島に行った。納骨を済ませ、墓前でボクはこういったらしい。

 「これからも自分のゴルフをまっとうしてみせます。つねに上を目指すから」

 この言葉に偽りはない。ただ、そういいながらも賞金王よりも上はどう目指せばいいのか、ということも感じはじめていた。

 そして、1月27日には『マスターズ』(4月9日〜12日、オーガスタナショナルGC、米国)の招待状が届いた。2年ぶり、2回目だった。

 最初の出場は1990年。4日間シビレっぱなしだったが、予選を通って33位に入った。いろいろな人から聞いていた以上のすばらしい大会で、ぜひまた出たかったから、招待状はうれしかった。

 当時は完全な招待制。だれを呼ぶかは先方しだいだ。だから招待状が来るまで出られるかどうかがわからない。日本ツアーの賞金王には招待状が来ることが通例になっていたけど、来なかったときもある。とくにこの年はマスターズ側の都合で招待状の発送が遅れていたようだったから、ちょっとヤキモキしていた。

 「待ち遠しかった。15年間の力を結集してがんばる」

 ボクはそのとき、こういっている。翌日には記者会見して「予選を通り24位以内(翌年の出場権獲得圏内)を狙う。でもコースの攻め方の作戦はゼロ。いろいろ考えても1番のティに立ったらガムシャラに振るだけだから」。そんなことをいっていた。

 マスターズ出場という明確な目標ができて、さらにトレーニングに熱が入った。そしてたちまち3月になり、国内ツアー開幕戦の『第一カップ』(3月5日〜8日、ハイビスカスGC、宮崎県)がはじまった。

 前年のナンバーワンで意気揚々とプレーするはずだったんだけど、そうはいかなかった。初日は72のパープレー。2日目に3オーバーの75をたたいて1打差の予選落ちを喫したのだ。

 でも、すぐに雪辱をはたせた。第2戦の『インペリアルトーナメント』(3月12日〜15日、セベ・バレステロスGC、茨城県)でシーズン初優勝ができたのだ。9位タイからスタートして2日目は2位、3日目に首位に立ち、最終日は2位の奥田靖己選手に3打差をつけて逃げきった。ツアー通算19勝目だった。

 3戦目の『静岡オープン』(3月19日〜22日、静岡CC浜岡C、静岡県)は18位タイ。国内序盤はここまでで、マスターズに旅立った。

 マスターズは、ショットは悪くない状態で練習日を終えられた。開幕前恒例のパー3コンテストでは2位になった。ただ、不安要素は抱えていた。

 「ショットはいいけど、パットはやってみないとわからない」という状態だったのだ。

 試合がはじまると、そのとおりの展開になった。初日はパットが決まらず5オーバー。2日目は5バーディを獲ったが短いパットをはずしてボギーも4つ。予選落ちとなってしまった。

 このときのコメントで、ボクはとても興味深いことをいっている。

 「自分なりにベストなゴルフだったから仕方がない。もう一度チャンスがほしい」

 後に、この気持ちが米ツアーへの本格挑戦をはじめるきっかけになっていくとは、このときはまだあまり思っていなかった。


賞金王の翌年は3勝。獲得賞金は前年を上まわる

 その後は日本ツアーを戦いながら、2回ほど米国遠征をした。

 最初は5月〜6月。3試合に出た。もちろん正式な出場資格はもっていない。日本ツアーの賞金王になったことで、招待出場した試合だった。

 予選通過をはたせたのは2試合。『メモリアルトーナメント』は19位タイに入り、『セントジュードクラシック』では4日間15アンダーをマーク。6位タイに入ることができた。

 7月には『全英オープン』(ミュアフィールド)に出場(予選落ち)し、次の8月には2回目の米国遠征。4週連続で出場して3回の予選通過。7万6000ドルほどの獲得賞金額になり、最終的なマネーランクは151位だった。

 その後、日本に戻ってすぐに『日本プロマッチプレー』(9月3日〜6日、プレステージCC、栃木県)に出場した。休みも練習ラウンドもなしの強行軍だったけど、決勝まで進むことができた。最後は中嶋常幸選手に3―1で敗れたけど、これで戦いのスイッチが入った。

 翌週、ホームコースともいえる習志野CC(9月10日〜13日、千葉県)での『サントリーオープン』は勝つことができた。初日は67の5アンダーで首位。2日目は72で2位タイ。3日目は再び67で単独首位。そして最終日は73ながら2位との差を前日の2打から3打に広げて優勝することができた。前年に続く2年連続優勝で、通算20勝目。節目の勝利にもなった。

 2位タイには次兄ジェット、さらに1打差の6位タイには長兄ジャンボが追い上げてきていた。親父が元気だったころに何度も招待したこの試合で、兄弟3人がいいゴルフができたこともうれしかった。そのなかで一番心配をかけてきたかもしれないボクが優勝できたことは、さらにうれしかった。

 次の優勝はおよそ1カ月半後にやってきた。『ラークカップゴルフ』(10月29日〜11月1日、ABCGC、兵庫県)だった。初日を4位でスタートし、2日目には2位タイ、3日目にはトップに浮上した。ただ、楽な展開ではなかったんだ。2打差の3位タイにジャンボが浮上してきた。最終日はそのジャンボと1打差2位のパットの名手、牧野裕選手との最終組になった。

 ジャンボとの最終日最終組はそれまでに4回あったけど、ジャンボの優勝が2回。ボクは1度も勝ったことがなかった。とくに悔しかったのが3週間前の『日本オープン』(10月8日〜12日、龍ヶ崎CC、茨城県)。ボクは2位から出て4位でフィニッシュ。ジャンボは優勝した。賞金王を獲ったあともジャンボは高いカベだったんだ。

 そのカベも、この試合では越えられた。スタートは連続3パットでボギー、ボギー。それを6、7番の連続バーディで獲り返した。そうして1打リードで迎えた18番パー5。ボクは4番アイアンで2オンに成功し、2パットのバーディ。同じくバーディを奪ってきたジャンボを1打差でかわして、通算21勝目をあげることができた。

 これがこの年の最後の勝利で、年間3勝。そのほかにも優勝争いには何度も絡み、終わってみれば賞金ランクは2位まで上昇していた。獲得賞金額は賞金王を獲った前年より1000万円以上多い1億3000万円あまりになっていた。

 シーズン途中で何度も海外に遠征しながらの成績としては満足できるものだった。賞金王で得た自信のおかげで、余裕のある戦い方ができた成果だと思った。それまでは「勝ちたい」と考えていたものが、「勝てる」に変わりつつあった。

 ひとつ上の段に立てた、というシーズン前の手ごたえどおりに戦えたのだ。


アメリカで戦ってみたい!どんどん膨らむ新たな決意

 ただ、そういう満足感だけに包まれて時を過ごすことはできなかった。途中から、ボクのなかにある思いが生まれてきていたからだ。

 前述したとおり、この92年は海外の試合にたくさん出られた。じつは2年前の90年にも同じくらい海外で戦っていた(9試合)のだが、そのときよりも「自分を試す」気持ちが強くなっていた。その結果、2年前より成績が出たことを見て「本格的にチャレンジしたら、どこまでやれるのかな?」と思いはじめていたのだ。

 その思いがさらに強まったのは、この年の日本での好成績だった。とくに後半はいいゴルフが続けられた。8月の米国遠征から戻ったあとの3カ月は、とても充実感のある期間でふたつの大きな試合に勝つこともできた。

 ただ、それだけの実力が身についていたことが「90年よりもよい結果」という自分なりの満足感を打ち消す方向に作用した。

 「日本では勝てるのに、アメリカでは優勝を争うこともできなかった」ということになったのだ。この日米の差にがく然とした。

 そして、しばらくしたら謙虚になれた。

「日本で強くても、威張れるものではないんだな」

 それまで、強さの基準は日本の中だけで考えてきた。そのトップに立てたことで大きな満足感を得たわけだけど、それ以上高い場所に進むことは考えなくなっていた。

 でも、アメリカでプレーしたことで前に進むための新しい道に気がついたんだ。

 「アメリカで戦ってみたい!自分のゴルフをどこまで強くすることができるのか。その方法を見つけたい!」

 そういう決意が胸のなかで生まれてきた。(次号に続く)






賞金王の翌年は米国遠征をしながらの賞金ランク2位。「勝ちたい」が「勝てる」に変わりつつあった



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。

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