連載コラム

舩越園子 サムライたちの記憶

諸見里しのぶ

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いまも、くやし涙を流していますか?



 年の差はひとまわりどころか、ふたまわり近く離れているというのに、初めて会ったときから彼女にはジェネレーションギャップというものをあまり感じなかった。それがなぜだったのかは、わからない。だが、感覚的な理由はある。彼女がむかしの自分によく似ていると思ったからだ。

 あれは2002年の初夏だった。諸見里しのぶはまだ高校1年生。日本の飲料メーカーがスポンサードしていた米LPGAの大会に推薦出場する彼女を、「取材して記事にしてほしい」という依頼を受けて、わたしはその大会へ出かけていった。

 練習ラウンド中の諸見里をようやく発見。ロープ際から眺めていたら、ふいに彼女の打球がロープのすぐそばへ飛んできた。

 ちょうどいい。声をかけてあいさつしよう。そう思って、わたしはその場にじっと立ち、諸見里が近づいてくるのを待った。

「諸見里さん、初めまして」

 声をかけた途端、諸見里は目を丸くしながら大きな声を発した。

「うわっ、しゃべった!」

 それは「日本語を話す人がいるはずもないと思っていたアメリカの試合会場で、ロープ際にいたアジアの顔の女性が、いきなり日本語をしゃべってビックリした」という意味だったそうだ。が、声をかけたら「しゃべった」とおどろかれたわたしのほうも、この女の子のリアクションには大いにおどろかされた。

 突拍子もない言動だなあと最初は思った。だが、いざ1対1で向き合ってみたら、ゴルフへの熱い想いを語る彼女の頭の中には、一本の筋が通っているなと感じられた。

「だれよりも強くなりたい。うまくなりたい。世界一になりたい」

 その思いにあふれていた。まだ高校1年生の女の子のボキャブラリーは決して豊富ではなかったけれど、世界一を目指すためなら苦労は厭わないぞという意気込みが、彼女のほんわり柔和な笑顔の向こう側に、そのときすでに秘められているのがわかった。

 もしかしたら、そのときすでにわたしは、彼女にむかしの自分に似たものを感じていたのかもしれない。かつてわたしはなんの保証も手立てもないのにいきなり渡米し、以後、ゴルフジャーナリストという肩書きを掲げ、こうして現在も仕事をさせていただいている。

 06年に米LPGAに挑みはじめた諸見里も、まさにゼロの状態で太平洋を渡り、ゼロからスタートしようとしていた。そこにわたしは共感めいたものを感じていたのかもしれない。


当たり前の小さなことが

 とはいえ、諸見里の場合は、プロゴルファーなら当然知っているようなゴルフ界の常識さえ知らず、その知らなさぶりは、日本メディアから呆れられたほどだった。

 なんせ、元々名前を知っていた外国人ゴルファーといえば、「グレッグ・ノーマン、ジャック・ニクラス、タイガー・ウッズだけ」というレベル。女性選手となると、「高校に入ってからも、アニカ・ソレンスタムとカリー・ウエブ、ローラ・デービースぐらいしか知らなかった」。

 そんな状態ゆえ、彼女はいつも少しとぼけているように見えた。初めてツアーの選手会に出席したときなどは、終了後も息をきらせながら興奮していた。「どうしたの?」とたずねると、彼女の返答は、こうだった。

「新人はみな自己紹介をさせられたんです。でもわたし、英語全然わからないじゃないですか。だから『もうやるしかない、エイッ!』って勇気を出して『アイ・アム・シノブ・モロミザト』っていったら、ちゃんと通じたんです!」
 当たり前といってしまえば当たり前。しかし、母国なら当たり前の取るに足らないことでも、異国の地においてゼロからスタートする者にとっては、その小さな出来事が積み重なって大きな前進につながっていく。そんな経験を味わってきたわたしには、彼女の興奮と喜びが理解できた。

 諸見里がいきなり米ツアーに挑もうと決意したきっかけを知ったときは、思わず苦笑させられた。前述した通り、彼女は高校1年生で米LPGAの大会にスポンサー推薦で出場したことがあったのだが、その2日目の最後のパー3が彼女の目をアメリカに向けたという。

「あのパー3は手前に池があったんです。5番アイアンで打ちたいっていったら、先生(江連忠氏)が『6番で打てなきゃ、世界には来れないよ』って。それで6番で打ったら、(池の手前の)バンカーにも届かなかった。そうしたら先生が『こんなゴルフしていて楽しいの?』って本気で怒った。それがすごいショックで、アニカとは3番手も5番手も違っていて、世界のレベルはこんなに高いんだって思った。それからです。先生と話し合って、将来はアメリカで戦っていこうって決めたんです」

 味わった悔しさ、思い知らされた世界とのギャップ。それでいきなり「それなら、アメリカへ行こう!」と決意。やっぱりわたしとそっくりだなあ。そう思うにつけ、苦笑せずにはいられなかった。


アメリカでは「保険」が利かない

 宮里藍がテキパキと優等生のようにメディアの質問に対して応える傍らで、諸見里はいつもやや間の抜けた返答ぶりだった。質問とは少しずれた答えをすること、しばしば。ラウンドの後半や終盤で崩れ気味になってホールアウトしてきたときなどは、ほぼ間違いなく彼女の涙を見ることになった。

 そんなとき、日本メディアの大半は「諸見里は、ホント、もろいね」「すぐ泣いちゃう気弱さが弱点だよなあ」などとささやき合っていた。しかし、わたしは逆だと思った。

 諸見里がしばしば涙を流すのは、彼女の負けん気があまりにも強いからだ。求めているものがあまりにも高く、その理想にたどり着けなかったこと、つまり目標をクリアできなかったことがあまりにもくやしくて、情けなくて、だからそれが涙に変わってしまう。彼女が見せる涙は、気弱な涙ではなく、気が強すぎて隠しきれないくやしさと情けなさ、さらなるモチベーションの結合体だったのだ。

 レベルは天と地ほど違う話だが、その昔、わたしはジョージア州アトランタで所属していたゴルフクラブのクラブチャンピオンを決める大会で、勝利を確信していながら崩れて負けたことがあった。大会終了後、簡単な食事会があり、わたしはくやしさをこらえながら笑顔で出席していたが、どうしようもないくやしさが込み上げ、泣きながら家に戻り、その夜は一晩中ベッドで泣いた。

 だから、泣きじゃくる諸見里を見つめていると、むかしの自分を眺めているような気持ちになり、心の中で彼女にエールを送り続けた。

 諸見里が米ツアーで戦いはじめて半年ぐらい経ったころだったと思う。再び彼女と1対1で向き合う機会を得た。

 渡米直後は自分の名前を英語でいえただけで感激していたが、若いだけに環境への順応も早かったようで、「アメリカ生活そのものの不安やストレスは思ったよりないです」と彼女はいった。

「でも、ゴルフそのもののストレスは大きい。楽しいことが70で、ゴルフのストレスが30だとしても、その30のほうが大きく感じちゃう」

 日本でゴルフをしていた間は感じたことのなかったストレスなのだと彼女はいった。なぜ、日本では感じなかったものをアメリカでは感じてしまうのか。

「日本とアメリカはコースが大きく違います。わたしの技術が足りないのか、精神的ななにかが足りないのか。日本のコースには緊張した場面でも、保険ルートがあるんですよ。だから、ミスしてもまだバーディが獲れる。でも、アメリカはピンポジがむずかしいし、左右も手前も奥もハザードがあってコースがものすごくタイトだから、保険をかける場所がない」

 自分なりの分析と考えを熱く語る諸見里におどろかされた。いつの間に、こんなに成長していたのだろう。見る目も肥やされ、ボキャブラリーも増え、視線も表情も堂々としたものに変わっていた。すっかりプロゴルファーらしさが備わった諸見里は頼もしく見えた。


くやし涙が心身の燃料に

「世界一になりたい」

 かつて、目を輝かせながらそういった諸見里は、しかし志し半ば、わずか1年で米ツアーから撤退し、日本へ戻っていった。

だが、それは諦めたわけでも敗北したわけでもなく、世界一の目指し方、目指すルートを変えようと決意したからで、心身に燃料があるかぎり、彼女はネバーギブアップだとわたしはいまも信じている。

 帰国後、着実に勝利を重ね、09年は年間6勝、賞金ランク2位と奮闘していたが、その後は低迷し、苦戦している様子。

 けれど、彼女がいまでも、どこかでしばしばくやし涙を流しているのだとすれば、その涙は、彼女の心身の燃料なのだ。

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