たまに、一日中球を打ってもそれをトレイニングとはたして呼べるかというと…
スポーツによって身体を鍛えるやり方はいろいろある。それこそ千差万別といっていいが、この鍛えるという言葉は英語ではトレインである。辞書を見れば明白だが、トレインは名詞では「列車、行列、順序」の意味であり、動詞になると「訓練する、体を鍛える」になる。トレイニングは、このトレインの動名詞だから訓練する意味になるが、わたしが中学生だったころには、現在のように一般化していなかった。例えば、体育の先生が生徒を指導するときに「もっと練習しなければダメだ」というのが普通だった。それが現在では、当時よりも言い方もソフトになっていて、新聞では「トレイニング不足をたしなめた」になっている。実は、あるスポーツ紙にコーチがこの言い方で、教えている女子プロに、もっと練習しなさいの意味でいったという記事が出ていた。
一般論でいうのだが、体育についての教え方は、筆者が十代の時代とは全く違ってきている。当時の中学は今とは違って五年制だった。従って一年生と五年生とでは、体力の差が大きかった。学校によっては、体育の科目は、四年生になると、正規の授業からは消えていた。体を鍛えるよりも勉強の方が大切である、と見なされていたわけで、むろん、そうではない学校もあった。校長や学校の伝統によって決められていたわけで、どちらが良いか悪いかの問題ではない。中学四年生ともなれば、体よりもさらに上の学校をめざす教科に時間を裂く必要があると見なされたのだ。
そういうシステムの差というか違いというか、学校制度の変化について、ここで論ずるつもりはないのだが、日本の若者たちに影響を及ぼしたことは確かなのである。基本的には、学問や技術の習得について、教師、コーチ、先輩からどう教えられたか、それによって人生が変ってくることもあるのだ。
自分の体験でいうと、小学校四年から六年までの三年間の担任教師は海軍出身で、一般的な体操のほかに剣道を正課に組み入れていた。用具は50人分が学校に備えられてあったから、生徒が購入する必要はなかった。週に二時間の授業だったが、六年生になったころには、区の大会に出ても、上位に入るような少年剣士が揃っていた。その授業のときに女子生徒がどうしていたかは、実は記憶にない。
その頃は、社会の全ての面で男女同権ではなかった。男子生徒が剣道ならば女子生徒は薙刀でも教えられたのだろうか。この武器は、男子の槍に近いもので、明治以前には確かに女性の武具だったが、現実の戦闘における主力の武器は剣や薙刀ではなくて銃に専門化していた。ただしそれは学校教育では無視された。今では時代劇の中に出てくるかどうか。といっても御殿女中が鉢巻きをきりりとしめて立つ姿はいわゆる「絵になる」のだが、実際にはサムライの敵として戦う女性はいなかっただろう。第一、着物の袖は男子の剣においても妨げになるから、宮本武蔵も近藤勇も、戦うときは襷で袖を背中にからげたのである。
実は、ゴルフにおいても日本人の場合、他のスポーツと違って古来の武術である剣道が少しは役立つのではあるまいか。
柔道はすでにスポーツとして公認されて、オリンピック種目になっている。半世紀前の東京オリンピックのときには、日本代表がオランダの選手に敗北した。たしかヘイシングといって、日本で練習したという大男だった。柔能ク剛ヲ制ス。この格言のようにはいかなかった。
ゴルフは球をウッド、アイアン、パターによってホールに入れる。力は不用である。長身の人が短躯よりも物理的に有利な面はあるとしても、絶対的なものではない。それは、球を飛ばす能力にすぐれていても、ゴルフの試合に勝つとは限らないのと同じである。
ゴルフにはボクシングのような体重制はない。かつて第5回カナダ・カップが日本で行われたとき、米国代表の一人のサム・スニードは、体格やその実績において日本代表だった中村寅吉を上回っていた。だからといって、試合ともなれば、話は別なのである。中村はもう一人の小野光一と組んで、団体戦でも個人戦でも優勝した。この大会はのちにワールドカップになり、日本で行われたときにはタイガー・ウッズとデイビド・デュバルが米国代表で出場した。2打負けていた米国チームは18番ホールのタイガーの劇的なチップイン・イーグルで首位に並んだが、プレイオフで南ア(アーニー・エルスとレティーフ・グーセン)チームに負けた。そのときTVで見ていたのだが、タイガーは池のわきのボールと高いところにあるグリーンのカップを何度も行ったり来たりした。わたしは、タイガーが俗な言い方をすればカッコつけているな、と思ったが、そうではなかった。彼は本気で調べていたのだ。
そしてカップインすると、タイガーはしてやったりという顔だったが、パートナーのデュバルは、びっくりして目を丸くしていた。全英オープンに勝ったころのデュバルは、タイガーより上の世界ランク1位を占めたこともあった。それが現在ではTVのコメンテイターをしている。時の流れというしかないが、それで想い出したことがある。デュバルは前にインタビュウでトレイニングというのは続けることが基本になるといったことがあった。もしかすると、デュバルではなくてブッチ・ハーモンだったかもしれない。
それで調べたら、車両が列をなしているのが列車(トレイン)であって市内を走る一両だけの車両はトラムという。それでわかるが、続けてこそトレイニングになるわけで、たまに思い出したように一日中球を打ったところで、それはトレイニングではない。筆者のようにあすゴルフだからといって近くの練習場へ行くのは、むろんトレイニングではない。それでも肩の筋肉をほぐす効果はあるから、何もしないよりはましだろう、とわたしは思っている。
三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けてきた作家。
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