連載コラム


米ツアー挑戦にのめり込む

2015/5/27 22:00

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日本のトップになっても米ツアーでは…



 プロスポーツ選手として生きていくのは簡単じゃない。スポーツが好きな人なら、そういう話は何度も聞いていると思う。

 もちろんプロゴルファーも同じだ。調子がいいときはバラ色に見える世界が、調子を崩すとアッという間に灰色に変わってしまう。そういう宿命があるからだ。

 幸いにも、ボクはプロ入りから賞金王を獲得するまでの15年間で大きなスランプがなかった。一歩ずつ前に進んで来られたわけだけど、それでもバラ色の未来だけを夢見たりはしなかった。

 職業として臨むゴルフには、底なしの怖さがつきまとう。最善を尽くしてプレーするのに最悪の結果が出る。そういうことがいつか必ず起きる。だれかと対戦するのなら相手のせいにすることができる。また運不運に結果を当てはめられるかもしれない。

 でも、ひとりでプレーするゴルフはすべての結果が自分に降りかかる。悩みはじめると、自分というごく小さなカラの中で堂々めぐりをはじめてしまい、解決策が見つからなくなるのである。

 そういう負のスパイラルに落ち込まないようにすること。ボクはそれにずっと気を配ってきた。結果が出る方法を続けて、出ない方法は捨てていく。そういう手探りの作業を積み重ねてきたことで賞金王になれた。

 ただ、いつも前を向いて歩いても、踏み出した一歩がどこに下りるかはわからない。いまより高い場所を踏みしめられる約束はないんだ。

 そのことは「賞金王を獲ってからも同じだろう」と覚悟はしていた。それは翌92年の成績に表れた。年間3勝、賞金ランク2位のすばらしい成績だったが、着地したのは一段低い場所に思えた。1位の座からは後退したからだ。

 そういうネガティブな気持ちを助長したのが「日本のトップになっても、米ツアーではいい成績が残せなかった」という悔しさだった。

 92年の米ツアーではマスターズを含めて8試合を戦った。予選通過は5試合で最高順位は『セントジュードクラシック』の6位タイ。賞金ランクは151位だった。シード権が獲れる125位には届かなかったんだ。


『TPC』6位が新しい扉を開く

 翌93年。この年も『マスターズ』の招待状を受け取ることができた。前年は予選落ちして「もう一度チャンスがほしい」と思った。その願いが通じた気がして、うれしかった。

 前年は日本ツアーで3試合を戦ってから米国に乗り込んだ。米ツアー初戦がマスターズだったわけだけど、それで結果が出なかったので、この年はマスターズ前に3試合を米国で戦うスケジュールを立てた。

 その前にひとつだけ国内戦に出た。開幕戦の『東建コーポレーションカップ』(3月4日〜7日、祁答院GC、鹿児島県。前年大会の名称は『第一カップ』)だ。4日間のスコアは4アンダー。16位タイとまずまずの成績で、それから米ツアーに向かった。

 米国での初戦は3月第3週の『ネッスルインビテーショナル』(3月21日終了)。初日はパープレーだったが、その後にスコアを崩してトータル13オーバー。67位タイと、予選通過しただけの結果になった。

 だが、翌週は結果が大きく変わった。3月第4週の『TPC(ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップ)』(28日終了)で快心のプレーができたんだ。

 開催コースはTPCソウグラス(フロリダ州)。池の中にグリーンが浮かぶ17番パー3が名物だった。大ギャラリーを意識した「スタジアムコース」というコンセプトで造られた最初のゴルフ場だった。

 その『TPC』は「5番目のメジャー」と呼ばれて、米ツアーがすごく力を入れていた試合だったんだ。前年(92年)はこの試合には招待されなかった。そのリベンジを兼ねて、思いきってプレーするつもりでスタートした。

 それがよかったのかどうか。前週に続いて初日は72のパープレーだったが、2日目から3日続けてアンダーパーでまわれたのだ。

 2日目は4アンダーの68。とくに3連続バーディであがれたことが大きかった。この時点で順位は首位から8打差の36位。

 「この流れを明日に生かそう」と思ったら、翌日も68でまわれた。順位はトップに5打差の13位まで上がった。

 この日はラッキーにも恵まれた。17番のパー3の表示は132ヤード。ボクの1打目はグリーンにキャリーしたが、そこで大きくバウンドして奥にコロがっていった。奥側の池に入ると覚悟したら、打球はグリーンにかかる橋の上をコロがって、ラフで止まった。池ポチャしていればダボになるところを、2オン2パットのボギーで切り抜けられたんだ。

 迎えた最終日。前半は4バーディ、ノーボギー。その時点では3位まで浮上した。

 だが、そこまでだった。後半に入ると勢いが止まった。10番、18番とふたつのボギーをたたき、バーディはひとつも獲れなくなったんだ。

 前半は好位置で楽しみながらプレーできた。でも後半に入ると順位を気にしはじめてしまった。それが思いきりのよさを消し、勢いも止まってしまったんだ。

 結局、最終日は2アンダーの70。通算10アンダー、6位タイでこの試合を終えた。ベスト10には食い込めたのだが、じつはこれがとても大きな6位だったのだ。

 まず、プレー中に大きな声援を送ってもらえるようになった。プレー後は大勢からサインを求められた。それまでの米ツアーで一番のファンの反応だったと思う。

 「やっと『ジャンボの弟』から『ジョー尾崎』として認めてもらえた」。そんな喜びを感じた。

 そして、もっと大きかったのが獲得賞金だった。

 前にもいったように、この試合は「5番目のメジャー」としてPGAツアーが看板トーナメントにするために力を入れていた。賞金額も当時の米ツアー最高額で、普通の試合の倍以上あった。このときの6位タイ(4名)の賞金も8万ドル超。シード獲得の目安である10万ドルに大きく近づけたんだ。

 翌週の『フリーポートマクモラン』(4月4日終了)は45位タイ。そして3度目の挑戦になった『マスターズ』(4月11日終了)も45位タイ。目覚ましい成績は残せなかったが、どちらも予選を通過したことで、さらに賞金を積み上げられた。

 するとこんなことをいわれた。

 「準シードの資格が獲れますが、出場カードを獲りますか? どうしますか?」

 米ツアーでは、前年のシード圏内までの賞金を稼ぐと、正式にメンバーになっていないプレーヤーでもシード権と同じ出場権を与えてくれる制度があった。サブシード(準シード)といったと思うが、ボクにもそのお声がかかったんだ。

 『TPC』で6位に入るまでは、そんな道がひらけてくるとは思っていなかった。それなのに、扉が開かれる状況になったんだ。

 すぐに女房の世志江に相談した。スケジュールを相談する必要があったからだ。また、気がかりだったのは自宅が完成したばかりだったこと。ローンもたっぷり残っていた。返済のメドと返す自信は十分あったが、女房からは難色を示されるかもしれないと思った。当然のことだったが、その心配は杞憂に終わった。

 「海外にいけるの?うれしい!」

 そんな答えが返ってきたんだ。アッサリしたものだと思った。だが、よく考えてみれば心配しないはずがない。いろんな不安のタネをまかれたのに、明るく挑戦を勧めてくれたのだ。ボク自身が「挑戦してみたい」と思っていることを知っていて前向きに喜んでくれた。それは「信頼している」というメッセージでもあったんだ。

 このあともボクはいろいろなチャレンジを行うのだが、そのたびに世志江は背中を押してくれた。そのことはいずれまた話すことになると思う。

 こうして最愛の家族の賛成を得て、ボクは米ツアーへの本格的なチャレンジを決めた。賞金王というタイトルが米ツアー出場の機会を増やし、そこで残した成績が米ツアー挑戦という扉を開けてくれたのだ。

 実績を残すことで、新しい扉が開く。これは格別な喜びだ。それを味わえることが、プロゴルファーとして戦い続けられた大きなエネルギーになっていた。

 進むべき道が見えないときが、人生にはよくある。そんなときは迷っているよりも、全力で目の前の戦いに取り組むべきだ。そうすることで新しい道が見えてくる。そういうことを、あらためて知った。


真の実力者になるための恰好の舞台は米ツアー

 こうして米ツアー挑戦を決めたのは37歳だった。その理由はいろいろあった。

●宿願だった日本の賞金王に続く目標になる
●「日本一の次は世界」というファンの期待にこたえたい
●自分のゴルフ技術を確立したい

 とくに意識したのは「技術の確立」だ。20歳でプロになってから自分なりに「自分のゴルフ」を作り上げてきた。「結果を残す」ことがプロの最大の使命。それは賞金王の獲得でひとまず完成に至ったはずだった。

 「はず」といったのは、実際にはまだ多くの迷いが自分のゴルフにあったからだ。

 ショットからパットまで、「これだ」と断言できるものはあまりもっていなかった。昨日の振り方は●だったのに、今日はそれが△になり、明日は◇になるかもしれない。そういう状態が続いていたのだ。

 ゴルフをはじめてからずっと、理論的な技術の学習ができなかったためだと思っていた。もちろん、すべてのプロが体系的な理論を身につけて、そのとおりにプレーしていたわけではない。それでも強い選手は「自分の型」をもっている。わかりやすいのは青木功さんや杉原輝雄さんだ。独特のフォームなのにショットや小技が抜群にうまい。そういう武器が、ボクにはなかった。ガムシャラなプレーぶりが目立ってしまうのはそのせいかもしれない、と思ったくらいだ。

 その姿勢がファンの共感につながっていた部分もあった。それを思えば「ガムシャラなのがダメ」だということにはしたくない。ただ気になりはじめていたことがあった。こういう気持ちが心の中に芽生えていたことだった。

 「もっと強くなりたい。これからも王者らしいゴルフで勝ち抜きたい」

 若武者といわれてきたボクも30代半ばを過ぎていた。体力的にも精神的な意味でも、いつまでタフさを維持できるかわからない。

 「ガムシャラさが目立つようなプレーでは、これ以上強くなっていくことはできないのではないか」という危機感をもつようになっていたんだ。

 「もっと強くなるには、スイングから全部を勉強し直して、自分の流儀をゆるぎないものにしたい。技術の追求に終わりがないなら、基礎だけでもいい。それをつかみたい。それがあれば大崩れはしないだろう。そういうゴルファーになりたい」

 当時の自分には調子の波があった。好不調の振幅が大きいのは、実力者としてはおかしい。だから波は小さく抑えたい。そのための格好の舞台が米ツアー挑戦ではないか。そう考えていた。

 アメリカで戦うごとに、むこうのコースの魅力を強く感じるようになっていた。「これぞプロの技術だ」というものを競う場所。そういう感覚が大きく膨らんでいた。そういうところで戦えば、自分の技術ももっとしっかりしたものにできるのではないか。

 そんな思いとともに、ボクは米ツアー挑戦にのめり込むことになった。(次号に続く)




もっと強くなるには、スイングから全部を勉強し直して自分の流儀をゆるぎないものにしたい。技術の追求に終わりがないなら、基礎だけでもいい。それをつかみたい。それがあれば大崩れはしないだろう。そういうゴルファーになりたい。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。2014年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い、「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝をはたした。徳島県出身。フリー。

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