彼女の父から教わった「取材のイロハ」
最初にお伝えしておきたいのだが、この話、福嶋晃子との思い出というよりは、彼女の父・久晃氏との思い出だ。もちろん、彼女との思い出も多々あるし、彼女の母親を交えた思い出もある。だが、わたしがもっとも強烈な刺激を受け、以後わたしの取材姿勢に大きな影響をもたらした久晃氏との思い出を、この場を借りて、どうしても書かせていただきたく思う。
あれは1998年の秋。フロリダ州デイトナという街の近くで開催されていた米女子ツアーのQスクール(予選会)最終予選会場に、わたしはいた。
そこには、96年と97年に2年連続で日本の賞金女王に輝き、98年も好調の波に乗っていた福嶋晃子が来ていた。米LPGA出場権獲得を目指してプレーしていた福嶋のまわりには、日本から取材に訪れていたスポーツ紙や雑誌の記者、カメラマン、テレビ局のクルーなどが大勢いたが、当時のわたしはそのだれひとりとして知り合いはおらず、すべて“見知らぬ日本人たち"だった。
わたしがその場にいたのは、日本の某ゴルフ雑誌から「福嶋がQスクールを通過して米ツアー出場権を手に入れたら、その場で独占インタビューをしてほしい」と依頼されていたからだ。「福嶋の事務所に承諾は得ているし、現場で取材交渉をする必要はない」ともいわれていた。それゆえわたしは、数日間に渡って行われていた最終予選に、ただただ毎日行っては眺め、眺めては黙って立ち去り、結果次第で最終日に福嶋に声をかけるつもりだった。
あいさつがない!まさに青天の霹靂
ふらっと姿を現しては眺めて帰る“気ままな取材"が3日目を迎えたころだった。わたしよりずっと年上の日本人女性が怒った顔で近寄ってきた。
「あなたが舩越さん?福嶋晃子の現地マネージャーですが、雑誌社からインタビューの話は聞いてますけど、それなら、なぜまずお父様にあいさつしないんですか?福嶋の事務所はお父様がやっているんですから、ここに来たら、まずお父様にあいさつするのが筋というものでしょう?」
それを聞いて、じつをいうと、最初は怒られている意味がよくわからなかった。それまで日本でほんの数年間、ゴルフライター的な仕事をさせてもらってはいたが、あまりにも駆け出しすぎて主要な選手の単独取材などさせてもらったことはなく、米ツアー取材をはじめてからは、米国式の取材の仕方を見よう見まねでやっていたからだ。
米メディアは選手の取材をするとき、選手に直接頼むのが普通だ。その場に選手の家族がいても、その家族がマネージャーを兼ねているなどの特殊事情がないかぎり、取材とは無関係の人々と見なす。そんなふうにクールに割り切る、ストレートでダイレクトな米メディアのやり方を、当時のわたしは当たり前の取材方法だと思っていたのだ。
だから、その女性マネージャーにいきなり怒られたときも、「福嶋晃子の取材をするために、なぜ、まず父親にあいさつしなければならないわけ?」と、首を傾げてしまった。
しかし、すでに在米5〜6年目だったわたしは、日米のいろいろな習慣が大きく異なることは何度も痛感させられていたので、このときも少し冷静になってから、「ああ、そうか」と気がついた。こういう場合は、なにはともあれ、礼をつくすことが大事なのだと。
福嶋の父親・久晃氏が元横浜大洋ホエールズの捕手だったということは、あらかじめ下調べしていたから知っていた。だが、久晃氏がその場にいるのかいないのか、把握しないまま、毎日、娘のプレーだけを一生懸命に眺めていたのだ。
ああ、とんでもない大失敗。怒らせちゃった。やっちゃった…。それまで大した取材経験を踏んだこともなかったあのときのわたしは、きっと顔面蒼白になっていたと思う。駐車場で帰り支度をしていた福嶋一団のところへ、わたしは真っ青な顔をしながら、心臓をバクバクさせて、とにかく走っていった。「ごあいさつが大変遅くなってすみません。わたし、舩越園子と申し…」
そういいかけたが、久晃氏の怒声で遮られた。「やっと来たか。オマエが舩越か。あいさつもせず取材ができると思うなよ。礼儀を知らないオマエなんかに取材なんてさせないよ」。返す言葉が見つからず、「すみません」と小声でつぶやき、うなだれた。福嶋一団は、そのまま車に乗り込み、走り去っていった。どうしよう…。どうしたらいいんだろう…。泣きそうになりながら考えた。
郷に入っても郷に従うな!?
ここはたしかにアメリカで、米メディアだったら、まず父親にあいさつなんて決してしないと思った。だが、ここはアメリカでも、取材の相手は日本人だ。その周囲にいるのも日本人。このわたしも日本人。和の心を抱く者どうしの取材は、やっぱり和の心が大事なのだ。そう思った。そうだとしたら、こういうときは、なにはともあれ、できることをできるかぎりやって誠意を見せるしかない!
わたしなりにそう結論を出し、Qスクール最終日となった翌日の朝は、夜明け前の真っ暗なうちからコースに赴き、駐車場の入り口で震えながら福嶋一団の車がやってくるのをひたすら待った。
「おはようございます!」
車がやってきて、入り口を通りかかった瞬間、大きな声でそうあいさつした。すると、前日は激怒して帰ってしまった久晃氏が、わざわざ車を止め、窓を開けて「おはよう!」と返してくれた。そのひとことを聞いた瞬間、安堵の涙が込み上げた。
その日の午後。福嶋は見事、Qスクールを5位で通過した。そして、前日怒っていた女性マネージャーがインタビューの場所と時間を決めてくれた。
初めて向き合った福嶋は、久晃氏がわたしに激怒した一件を知っていたのだろうけれど、あえて一切触れないでくれた。そこに彼女の優しさを感じた。そして彼女は、プレーしている姿だけを眺めているときより、実際はずっと謙虚で可愛らしい女性だった。甘えん坊っぽいところ、ちょっぴり弱気なところ、女の子らしい面が多々感じられ、あの父親の大きな愛情に包まれながらゴルフをしてきたのだろうなと、そう思えた。
元々の予定にはなかったのだが、わたしは思い立って「もし可能なら、福嶋選手のインタビューのあとで、お父さんのインタビューもさせていただけないですか?」と頼み、承諾してもらった。久晃氏にインタビューして、父娘の強い絆の印象はさらに強くなった。そして、記事にはこう書いた。
「これまでは自宅の裏庭の小さなプールで泳いでいた娘が、これからは大海原に出ていく。その娘が、たとえどこで泳いでも溺れないように、久晃氏はずっと娘を見守っていく」
素敵な父娘の関係があるからこそ、娘はプロゴルファーとして成功しつつあるのだとわかり、だからこそ、娘のみならず父親の取材もできたことがうれしかった。
本気で怒る人は本気で笑う
数カ月後。暦が99年に変わり、米女子ツアーの新シーズンがはじまった1月。試合会場で手を振りながら笑顔で近寄ってきたのは久晃氏だった。
「いやあ、舩越さん、久しぶりだね。元気だった?あれは、いい記事だったねえ。素晴らしかった。うん、素晴らしい!」
あんなに激怒した人が、こんなにわたしの記事を喜んでくれている。それがなにより、うれしかった。あんなに本気で怒声を上げた人なのだから、こんなに喜んでくれているその気持ちも、この笑顔も、きっと本物、本気に違いない。そう信じられてうれしかった。
仕事って、こうやってやるもんなんだなあ。たとえ世界のどこにいても、日本人らしさを忘れてはいけないんだなあ。誠意はちゃんと通じるもので、誠意なくして、いい仕事はできないんだなあ。
そんな取材のイロハをあの出来事を通じて、福嶋の父・久晃氏から教わったのだと思う。
先日、ゴルフの取材をはじめてまだ数年の日本人女性が、かつてのわたしと似た経験をして、たいそう悩んでいた。「わたしもねえ、むかし、そんな経験したのよ」
すると彼女は目をまるくしながら「えー、園子さんも、そんな経験したんですか?」と問い返してきた。
「したした。失敗は山ほどしたもん。で、とにかくできることをやろうと思って、日の出前から駐車場で待ち伏せしてね…」
遥かむかしの、しかし忘れがたき出来事を懐かしく思い出しながら、その女性に話して聞かせた。
「なんか、わたし、園子さんからその話を聞かせてもらうために、今日、ああいう出来事に出くわしたのかもしれない。そうなる流れだったような気がしてきました。いいお話聞かせてもらって、ありがとうございます」
彼女はそういって、納得したような顔をしていた。彼女もまた彼女なりに、大事なことに気づいたのだろう。取材のイロハも、こうやって次代の人々に伝わっていけば、わたしもうれしい。
「オレもうれしいよ」
もしも、その場に久晃氏が居合わせたら、そういってくれたような気がした。
この記事が気に入ったら
SNSでシェアしましょう!