PGAはPGAでも、プロゴルフ協会ではないもうひとつのPGAが存在し、そのゴルフ会はいまも…
秋風が吹きはじめれば忘れるのだが、ここ数日の東京の暑さは尋常ではない。クーラーはセットしてあるのだが、基本的には不自然な涼しさだから、何となくスッキリしない。やはり避暑地のさわやかな自然の空気には及ばない。以前は、丹羽文雄をはじめ石坂洋次郎、井上靖らの大家は軽井沢に別荘を構えていて、仕事の合い間にゴルフを楽しんでいた。出版社が主催する文壇ゴルフ会も、夏には一日だけ軽井沢で開催された。別荘のないわたしたちは、バッグをかついで列車で行った。コースの方で気をきかして駅まで小型バスを出してくれた。
あるとき、そのバスの乗り口わきに「PGA様ご一行」という貼り紙がしてあった。PGAというのは、ペンマン・ゴルフ・アソシエイションの略語である。一九三七年に、川口松太郎さんが世話役になって作ったゴルフ同好会である。今でもその会は続いている。ペンマンというのは作家だけではなく、ペンで仕事をする者の意味である。というのは、作家のほかにもジャーナリスト、画家、エッセイストまで広いジャンルのゴルフ好きをメンバーにした集り、という由来があるのだ。
するとある夏、列車から駅の外へ出て、さほど遠くないところにPGAご一行様のバスが停車していた。わたしと仲間のSや画家のMが乗りこんだあと、一人の日やけした中年男が乗ってきた。
「これ、PGAのバス?」
「はい、さようでございます」
と運転手は丁重にいった。その日やけ男は座る前に車内を見回した。知った顔を探したようだが、何か違うようだと感じたらしく運転手に、本当にPGAか、といった。わたしは気がついた。プロとして知られた顔ではないが、ペンマンのPではなくて、プロフェッショナルのPと思ったらしい。わたしがその誤解を説明すると、彼は不服そうに下車した。もし、あのまま発車して、丹羽さんたちが待っているゴルフ場に着いたら、どういうことになっていただろうか。誤解と判明してからタクシーを呼び寄せるとしても、時間がかかるはずである。もしスタートの決定しているゴルフ会なら失格してしまう。
とはいえ、作家のPGAは一九三七年に発足している。日本のプロゴルフ協会の歴史はそれよりも古いだろうが、その当時は英語名称は公的には認められなかった。その種の歴史的なエピソードはいろいろあるだろうが、文壇ゴルフでのPGAにも長い歴史があるのだ。ということは、ペンマンにはゴルフ好きが健在してきたことの証しでもある。月に一度の例会にわたしも出たいと思うが、この暑さの中では気が進まない。
それで思い出すのは、新聞記者だったころのことである。今と違って編集局にクーラーは入っていなかった。局長席の近くはそれらしきものがあっても、われわれが原稿を書く席はひどかった。窓をあけると原稿用紙が吹き飛ぶので、原則的には締めきられている。外の仕事先、たとえば警視庁や国会ならクーラー完備で涼しいが、内勤になったら大変である。その当番のとき、わたしは昼食に出て取材先に用事があることを名目に炎熱の編集局に戻らず、約三時間ほどは近くの映画館、それも新作ではなく旧作の名画座で過した。もちろん席で居眠りするためである。それ以外にも英会話の勉強ということもあった。耳で覚えるのが必要なんだ、と学生時代の英語の先生で、UCLAに留学した人から教えられた。
ときどき外部の人から、記者は作家になるためのワンステップだったのか、といわれることがあるが、そうではない。ロンドンかニューヨーク駐在の特派員になるのが夢だった。しかし、三十歳も過ぎると、それが不可能らしいと気がつく。また、日本社会全体の問題かもしれないが、出身大学の集り、師弟めいた人間関係のしがらみその他、面倒なことが多い。わたしの出た学校で先輩といえるのは、わたしが仲間とともに二、三年弱の地方支局勤めを終えて本社に戻ったとき、社会部に一人いるだけだった。出身校で多かったのは、東大、早稲田で、どこの部にも多かったが、結局は本人の能力がモノをいう世界のはずである。取材、文章の能力によって決まるわけで、映画館の昼寝もいくらかは英会話能力の足しにはなる。また、事実としていえるのは、社員の囲碁同好会、山登りや釣り好きの集りもあったが、ゴルフ同好会はなかったことだ。
今はなくなったが、カナダカップというゴルフの選手権大会があった。パーマーとニクラスが米国代表になって来日したことがあったし、また名称を変えた大会にタイガーとD・デュバルが来日したこともあった。それより前の第5回(一九五七年、昭和三十二年)大会の記事では、ゴルフを知らない社会部記者の書いたものは、読むにたえないものだった。書く方も無知だし、手を入れる次長も無知だった。
それはゴルフそのものが日本の社会ではまだまだ認知されていなかったということかも知れない。さらにその原因はプレイの条件が難しかったことではないだろうか。まずプレイ料金の高いこと、都市の住宅から距離が遠いこと、それ以上に厄介なのは、ゴルフクラブの会員になるのが容易ではないし、時には多額の金も必要としたのである。マスターズの取材に行ったとき、オーガスタの支配人と話したことがあって、日本では会員の権利獲得に最高四百万ドル(当時約四億円)かかるといったら、アメリカなら普通のコースが作れるな、と笑われたことがあった。あるいは接待ゴルフが多くなったことも"日本的"すぎる。ペブルビーチの一番ティで、四人の日本人を最敬礼で送り出した社員(接待係?)が、そのあと実に切なげな顔だったのを覚えている。
日本でボビィ・ジョーンズのような人物を求めるのは、非現実的なことかもしれないが、ゴルフと人間社会との位置関係は、スポーツ文化の成熟度を示す物指しになるといってもいいのではあるまいか。
三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けている作家。
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