四大メジャーで勝った日本人は未だいないが、ゴルフの場合の「あと一歩の壁」は、現実には…
イラスト=松本孝志
好きこそものの上手なれ、という言葉がある。もしかすると諺(ことわざ)といってもいいかもしれない。手もとにある国語辞典三冊を調べると、三冊とも「すき」の項目に、人びとに古くから言いつたえられ使ってきたものだ、と説明している。さらにしつこく「好き」はいつごろから日本語として使われたのかを調べてみると、紫式部の「源氏物語」に使われている、と教えられた。
現在の中学校の教科書に「源氏物語」が出ているかどうかは知らないが、日本語としてはかなり古くから使われてきたことは確かだろう。といって、好きかきらいかは個人の心の動きだから、全てに通用するとは限らない。「ものの上手なれ」のものは、多くは芸ごとを習う場合のことであろう。
教育、ことに小、中学校の場合は、原則は共通であっても、具体的にどうするかは、地域や教師によって変ってくる。それに、時代によっても、とつけ加えるべきかもしれない。わたしの場合、小学校で、低学年のころは、「体操」は当時の国家的方針によって教師に任されていた。わたしの学んだ小学校の担当の先生は蹴球(しゅうきゅう)を教えた。
ボールを蹴ることに変りないが、サッカーとラグビー、さらにアメリカン・フットボールもこれに入る。ただし、当時の日本では、アメリカン・フットボール(アメフト)は、ほとんど採用されなかった。わたしの先生はサッカーの専門家だった。先生が生徒五十人を相手にボールを蹴る。むろん、足かげんで生徒たちが蹴りやすいところにボールを蹴ってくる。一、二年生の蹴る力はさほど強くないから、せいぜい15メートル前後である。先生はそれを受けて、足でドリブルしながら生徒の陣の方へ蹴ってくる。要するに、体操の時間は、先生の体力維持のトレーニングに当てていたのだ。とはいえ、生徒としてはボールを力いっぱい蹴ることができるわけで、楽しい時間だったのだ。
その先生は、生徒が3年生になったときに退職した。どこの学校に転勤したのかを聞くと、A新聞社に入って野球に関係する業務に就いた、とわかった。義理堅い先生で、そのとき、きみたちと過した時間は忘れられない、卒業のときに必ず何かお祝いを送る、といい、現実に卒業まで転校せずに残っていた三十名くらいのものに筆箱をくれた。一組五十人だったが、二十人くらいは引越していた。
新聞社は、何も新聞を出す仕事だけではない。そのころは、スポーツに関係した催しに新聞社が関係することが多かった。中学野球は高校野球に変ったし、社会人野球もしばらく続いた。ただし、社会人が集ってチームを作るやり方にはどうしても限度があった。つまり、いい選手がプロに引っぱられて退社したから、チームとして存続しにくいのだ。
ゴルフというスポーツは、その点で野球のような吸引力に欠けている。中部銀次郎という人は、日本アマに6回優勝という大記録を作ったゴルファーだが、それによって出身学校が何かプラスを得たということはなかっただろう。わたしは個人的には知遇を得てゴルフに関していろいろと教えられることは多かったが、中部家が大洋漁業のオーナーであり、プロ野球の球団を持っていたことは知っていた。また、三原脩監督が弱かったホエールズを初優勝させたことも知っていた。
野球というスポーツは日本人には古くから親しまれた種目である。早慶戦は戦前からライバル同士の一戦として知られていた。三原は早大から巨人入りし、水原茂はシベリアに抑留されたのちに帰国して巨人に入った。大学は慶応だったから、いわば両者は宿命的なライバルだった。三原は大学生のときに、ホームスチールをやって優勝した。このプレイは、一か八かのギャンブル的な一面があるから、決してほめられるものではないのだが、三原には、そういう“勝負師"的な面があった。かつてわたしは三原本人から取材したことがある。大戦前に召集令状がきて陸軍に召集されたのだが、当時は新聞社につとめていた。野球界に入るように勧誘にきた相手に、来年早々に軍隊に入るからお役に立てませんよ、とことわったが、
「それは仕方のないことですから構いませんよ。ただ、あなたが入ってくれれば、野球の仕事が決していいかげんのものではない、と皆さんにわかってもらえます」
といわれた。あとでわかったが、ホームスチールで有名になった三原が入った球団ということで、若いピッチャー沢村栄治の両親も期待してくれるだろう、と見込んでいたというのである。沢村は、アメリカ大リーグの選抜チームを相手に1対ゼロで負けていた。その1点は、ルー・ゲーリッグのホームランだった。ホームラン王のベーブ・ルースよりもアメリカ本国では高い評価を受けた選手である。
ゴルフで有名な人といえば、パーマー、ニクラス、そのあとはタイガー・ウッズだろうが、日本でカナダ・カップが行われたときにはベン・ホーガンだった。四大競技というのは、マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロということになっている。どうして全米プロが入っているのかは不明だが、ニクラスの後継者といわれたトム・ワトソンもなぜか全米プロには勝てなかった。
この四大競技における日本人の最高は、青木功の全米オープン2位、と中嶋常幸の全米プロ3位である。今は、四大競技で勝てる能力の選手としては松山英樹くらいしかいないと思うが、現実にはあと一歩が足りない、と思う。あと一歩の壁はスポーツにはいくらもあるが、ゴルフのあと一歩の距離は、現実には一歩ではなくて百歩はあると思うのだ。
三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けている作家。
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