近づき、遠のき、いつかふたたび――。
宮里藍は、かつてわたしが必死に追いかけた選手のひとりだった。いや、その代表選手だったといっていい。毎週、毎試合、毎ラウンド。毎ホール、毎ショット、その一挙手一投足をつぶさに眺めた。そして、彼女はなにを考え、感じているのか、そんなことを想像し、探りながら取材を重ね、原稿を綴った。
思い返せば、宮里はわたしにとって陽炎(かげろう)みたいな存在だった。
選手とメディアという立場で宮里と初めて接したのは05年の秋だった。翌年の米女子ツアーの出場権を得るため、フロリダ州で開かれたQスクール(予選会)にやってきた宮里は、すでに日本では国民的スターで、現地には山のような日本メディアが詰めかけていた。どの日本メディアも、すでに何度も日本で彼女を取材してきたのだと思われた。が、日本で取材活動をほとんどしていなかったわたしにとっては、このときが彼女の初取材だった。
だが、じつをいえば、そのずっと以前に日本でたまたま宮里と接したことがあった。あるゴルフ関連の表彰式で彼女とわたしは壇上に並んで立ち、記念写真に収まったことがあったのだ。そのとき、わたしは彼女にひと言話しかけた。たしか、彼女の東北高校への進学について、「東北に行くんだよね?」とか、「東北でがんばっているんだよね?」とか、そんなことをいったのだと思う。
「はい。がんばります!」
弾けるような笑顔とはっきりした口調で、彼女はそう返事をした。目がキラキラした少女だな、そう感じたこともたしかだった。
Qスクール取材のはじまりに際し、わたしは宮里にまずあいさつをしようと思い、彼女に声をかけた。簡単な自己紹介のあと、かつて表彰式で並んだときのことを話して「覚えていますか?」とたずねたら、彼女はわたしの言葉を遮るように「全然、覚えてません!」と、きっぱり即答。
その瞬間は、あまりにもそっけない態度に唖然とさせられた。が、考えてみれば、国民的アイドルと持ち上げられ、変装しなければ街を歩けないほど持てはやされ、メディアやファンから追いかけられていた20歳の少女なのだから、「あのとき一緒だったわたしだよ」なんていわれて詰め寄られることは百万回ぐらいあったのだろう。だから、すぐさま「仕方がない」「そりゃそうだろうな」と思い直した。しかし、そのときのそんな宮里は、正直なところ、とても遠い存在に感じられた。
距離を縮めた涙とスランプ
Qスクールを2位に12打差をつける断トツ1位で突破した宮里は、翌年から米女子ツアーに参戦し、わたしはその全試合を追いかけはじめた。だから、毎週のように彼女はわたしの目の前にいた。話を聞くときは至近距離にいた。物理的にはそんなにも近くにいたのに、精神的には彼女はずっと遠い存在のままだった。
そのワケは、なかなか本心を語ってくれず、教科書みたいな返答を機械のように繰り返すばかりだったからだ。初優勝はまだかとせっつかれ、そのプレッシャーの下、宮里は必死だったが、その必死さに気づかれまいとして本心を隠し、無表情な仮面を被り続けた。だから取材をしても心と心が通うことはなく、彼女とわたしの距離感はなかなか縮まらなかった。
そして、初めて彼女を心の底から応援したいと感じたのは、彼女の涙を見たときだった。米女子ツアーで初めて最終日最終組を経験し、大崩れして大泣きした宮里。どんなに突っぱってみても、緊張もするし、気弱にもなるし、怖さも悔しさも悲しさも感じるし、涙も流す。そんな弱さを彼女が初めてさらけ出したとき、わたしのなかで彼女は少しだけ近い存在になった。
ひとたび距離感が縮まったと感じたら、そのあとはことあるごとに宮里らしさが見えてきた。彼女のほうも、一度号泣したことで、重く厚い仮面が一枚だけ剥がれ落ちたような気分になったのかもしれない。少しずつ本心と思われる言葉も口にするようになり、彼女を追いかける取材は、だんだん楽しくなっていった。
初優勝を心待ちにしながら取材を重ねた。今度こそ、今回こそ。そう願ったことが何度あったことか。しかし、勝利を挙げられないまま、彼女はスランプに陥っていった。
とはいえ、成績が下降したからといって、その存在感まで遠のいていったわけではなかった。どちらかといえばその逆で、フェアウェイも捉えられないほどの不調に陥りながらも必死に前を向こうとしていた彼女は痛々しくもあり、それはむしろ人間らしく、愛おしさを覚えた。
がんばれ、藍ちゃん!スランプに負けるな、つぶれるな!心のなかで何度も何度もわたしはエールを送った。
一番近くにいた「宮里藍」
スランプから抜け出す出口がようやく見えはじめたころ、宮里と1対1でインタビューする機会を得た。待ち合わせたのは、ロサンゼルス郊外の彼女の自宅近くのコーヒーショップ。不調の間の心労で、げっそりとした顔をしていたら、なんて声を掛けたらいいものか。そんなことを考えながら彼女を待っていたら、弾けるような笑顔で藍ちゃんはやってきた。
レギンスの上にショートパンツをオンした、いかにも今風のファッション。ニコニコ笑う彼女の目は、あの表彰式の壇上で見たときと同じようにキラキラしていた。そんな宮里をひと目見た瞬間、なにかが吹っ切れたんだなと確信した。
わたしの直感は当たっていた。彼女はすでにスランプを受け入れ、自分なりに咀嚼していた。
「勝てるチャンスが増えて、欲を出しすぎたことが一番の原因だった。ケガもあったし、いろんな歯車が噛みあわなくなって、結果的にドライバーがおかしくなった。起こるべくして起こったんです。最初はショックで、しばらくは泣き倒しました」
そんな宮里の心を救ってくれたのは、父と母だったと彼女はいった。毎晩のように電話をしてくれて「絶対に逃げてはいけないよ」と優しく声を掛け続けてくれた父。思い返せば、経済的な苦しさのなか、いろんなものを切り詰めて兄妹3人にゴルフをさせてくれた優しい母。両親のありがたさ、周囲の人々への感謝がスランプになって以後、胸のなかに沸き上がってきたのだと彼女はいった。
「がんばりすぎていたのかな。寝ても覚めてもゴルフだったから。ゴルフしか見えていなかったのかもしれない。でも、やっとゴルフだけが人生じゃないんだって心から思えるようになってきた」
友だちと遊びたい。恋もしたい。結婚して子どもも産みたい。プロゴルファーである前にひとりの人間、ひとりの女であることに気づいた宮里は、かつての国民的スターだった「藍ちゃん」ではなく、ずっとずっと魅力的になった「宮里藍」だった。
あのコーヒーショップで話し込んだときの宮里が、わたしにとっては「一番近くにいた宮里藍」だった。
遠くから見守った初優勝
その後、宮里は見違えるように立ち直っていった。だが、わたしは一身上の理由で女子ツアーの取材に出向くことをやめてしまった。宮里の初優勝をこの目で見たい、取材したいという思いは強く、それを諦めるのは辛かったが、当時のわたしは女子ツアーの取材で、ある状況に遭遇するとパニック障害を起こしていた。呼吸もできないほど心身の健康を損ないながら取材を続けたら、宮里にも周囲にも迷惑をかける。宮里が悟ったように、わたしもゴルフジャーナリストである前にひとりの人間なのだ。そう自分に言い聞かせ、苦渋の選択で女子ツアー取材に自らストップをかけた。
だから、09年にエビアンマスターズで初優勝を遂げた宮里の雄姿をこの目で見ることはできなかった。それはいまでも、大きな悔いとなって残っている。以後、宮里が勝利を重ね、最高に輝いていた姿を見ることも、話を聞くことも、活字にすることもできなかった。それがとても残念でたまらない。
もしも、あのコーヒーショップで語り合ったとき、宮里もわたしとの距離感が縮まったと感じてくれていたとしたら、そして、これからも「ちゃんと見ていてね」「ずっと書き続けてね」と思ってくれていたとしたら、彼女に対してとても申し訳ないと思う。せっかく近くに来てくれた彼女との距離感を広げてしまったのは、このわたしなのだ。
「ごめんね、藍ちゃん」
その言葉を、わたしはまだ宮里にいえずにいる。ずっと会わずじまいになっている。けれど、宮里があのスランプを脱したように、わたしもいまでは心の平穏を取り戻し、すっかり健康になった。だから、また彼女に会いに行ってみようかな。そうしたら、ふたたびふたりの距離を縮めることはできるかもしれない。
いや、きっとできる――。そう信じたい。
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