連載コラム

船越園子 サムライたちの記憶 第5回
水巻善典 佐々木久行

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米ツアーで取材をはじめたころ。思い出に残るふたり

 わたしが93年に渡米してから数年の間、タイガー・ウッズがまだ登場していなかった当時の米ツアーの話題や情報が日本に報じられるのは、メジャー大会のときぐらいだった。スポーツ紙の記者数人は、そのころ米ツアーに参戦していた尾崎直道や岡本綾子、小林浩美などに、ある程度の期間は同行していたが、それも最初だけですぐに彼らの姿は見えなくなった。ましてや、ゴルフ雑誌からの取材記者などは皆無に近かった。

 だが、そんな時代であっても、米ツアーで戦おうという意志を抱いた日本人選手は、むしろいまより多かったのかもしれない。少なくともあのころは、毎年のように日本人選手が米ツアーにやってきた感があった。

 当時わたしは、米ツアーにやってきた日本人選手たちに必死に近寄り、取材を試みていたのだが、ワープロで原稿を打ち、プリントアウトしてはFAXで日本へ送っていたせいか、いまとなっては詳細な記録が見当たらない。またそのころ、ゴルフ雑誌からの、日本人選手への取材依頼は少なかった。

 けれど、そういったなかで、直に接した日本人選手の印象は強烈に残っている。そして、それらはゴルフのプレーではなく、まったく別のシーンのひとコマとしてわたしの脳裏に焼きついている。だから、そのころからわたしの興味は、インサイドロープよりもアウトサイドロープに向いていたのだろう。

米ツアー取材初の日本人は水巻善典



 わたしが米ツアーの会場に出向き、初めて接した日本人選手は水巻善典だった。水巻がフル参戦していた1994年の春。ジョージア州アトランタに住んでいたわたしは、同じ州内で開催された大会会場へカメラとノートを携えて、いそいそと出かけていった。

 初日のラウンド終盤にさしかかった水巻をロープの外側から眺めていたら、グリーンの近くで折り畳み椅子に腰かけ水巻のプレーに見入っている日本人女性を発見。あれはだれだろうと思っていると、ホールアウトした水巻がその女性に話しかけた。その会話を聞いて、彼女が女子プロであり妻(当時)でもある順子さんだとわかった。わたしは次のホールで意を決して彼女に話しかけた。

 順子さんのほうも、米ツアーの会場で日本人から話しかけられることがめずらしかった時代ゆえ、少しうれしそうに応答してくれた。わたしはしばらく自己紹介のようなことをしていた。

 すると、そのホールを終えた水巻がまた順子さんに近寄ってきて、話しかけた。

「よかっただろ、いまのバーディ」

 だが、わたしが話しかけてしまったせいで、順子さんは水巻のバーディを見ておらず、こんなひと言を発してしまった。

「あら、いまバーディだったの?」

 すると、水巻はあからさまにムッとして「おい、ちゃんと見ててよ!」と声を荒らげ、そそくさと次のホールのティグラウンドへ向かっていった。そのときの印象がいまでも強烈に残っているのである。

 なにが強烈だったのか??それは、米ツアー出場権を獲るほどの実力を備えている選手であっても、その素顔は案外、子どもっぽいというか、純真というか、甘えん坊というか。そういうものなんだなと初めて知らされたのが、このときの出来事だったのだ。

 同じプロゴルファーであり、自分のゴルフと、自分という人間をだれよりも理解し、信頼してくれている奥さん。だからこそ、彼女に「ちゃんと見ててね」「全部、見ててね」といいたげだったあのときの水巻。その態度と表情を目撃したとき、わたしのなかでひとつのひらめきがあった。

 選手たちの気持ちがにじみ出る一瞬一瞬を逃さず拾いたい??。

 咄嗟にそう思ったあの出来事が、それ以後、米ツアーでさまざまな選手を取材する際の基本姿勢へとわたしを導いてくれた。プロゴルファーもひと皮むけば、みなふつうの人間であり、みな子ども。そんなふうに感じたことで、わたしは米ツアー選手たちの人間性をどんどん知りたくなっていった。

 そう、水巻はわたしの取材スタイルをスタート時点で方向づけてくれた、わたしにとっての重要人物なのだ。もちろん、水巻は当時もいまもそんなことを知るよしもなく、わたしも帰国してからの水巻のその後の人生をほとんど知らない。

 ほんの一年ほどの歳月を同じ米ツアーという場所で過ごし、わたしが水巻に与えた影響はなかっただろうけれど、わたしは水巻から大きな影響を与えてもらった。それなのに、その後は接点すらないというのは、ちょっぴりさみしい話だが、「袖振り合うもなんとやら」という古い教えがこんなところにも生きているのだと思うと、ちょっぴりうれしくなる。

初対面は冬のゴルフ場佐々木久行



 もうひとり、やっぱりゴルフのプレーではないけれど、わたしに強烈な、というより長いスパンで強い印象を与えてくれたのは、いまは亡き佐々木久行だった。

 佐々木がまだ日本ツアーの出場権すらもっていなかった下積み時代、わたしはある日本のゴルフ雑誌の仕事で彼を八王子のゴルフ場で取材したことがあった。「冬ゴルフ対策」という企画ものの取材で、いわばモデルのようなことをお願いしたのがまだ20代だった佐々木で、ついでにいうとその当時わたしも20代だった。

 取材を行なったのは、とても寒い冬の日だった。ついには雪が降り出した凍えるようなゴルフ場で、わたしがどれほど「寒い寒い! 寒すぎる!」と騒いでも、佐々木はただの一度も寒いとはいわず、モデル的な仕事を黙々とこなしていた。

 撮影が終了し、同行していた熟練編集長がクラブハウスのレストランでみんなにラーメンを振る舞った。すると、本当にうれしそうな顔をして「いただきます」と大きな声でいった途端、一気にラーメンをすすったあのときの佐々木の姿が、脳裏に焼きついている。

 その後、佐々木は腕を上げ、日本ツアーのシード選手になり、94年には日本シリーズ、95年には日本プロを制覇して“公式戦男”と呼ばれるようになった。そして95年の秋、米ツアーのQスクール(予選会)を見事突破し、96年の米ツアー出場権を手に入れた。

 わたしがその朗報を耳にしたのもアトランタに住んでいたときで、その日たまたま日本から来ていた友人の見送りでアトランタ空港へ行ったら、チェックインカウンターで偶然にも佐々木に遭遇したのだった。

「佐々木さん、Qスクール、おめでとう。来年はこっちでプレーするんですよね?」

 そう声をかけたら、佐々木はうれしそうにうなずいた。その笑顔は覚えているのだが、彼がなんといったのか、その言葉はどうしても思い出せない。

 96年の夏。ちょっとしたインタビューをお願いしたら、佐々木は快くOKしてくれて、メディアセンターまでわざわざ足を運んでくれた。彼はメディアセンターのコンピュータで自分のショットやパットのデータを見たかったらしく、不慣れな手つきでコンピュータをいじりはじめた。そのひたむきな姿もまた、わたしの脳裏に焼きついた。

 日本の売れないプロから米ツアー選手になるまでの長い日々。うれしい出来事もあっただろうが、家族を含め辛い出来事も乗り越えようとしていた佐々木。いろんな感情を胸に抱き、なにに対しても一生懸命だった佐々木の姿は、いつも強いなにかを訴えかけてきた。どちらかといえば佐々木は寡黙なほうだったが、黙々と努力を続ける姿からはプロらしさが溢れ出ていた。

 昨年の年明けに、佐々木の突然の訃報を聞いたときはとても悲しかったけれど、佐々木の思い出も水巻の印象も、わたしのなかには大切な財産として永遠に生きている。

 そんな財産がいまあるということを、わたしはとても幸せに思い、誇りに思っている。(文中敬称略)

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