連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

もっと強くなれる。信じて挑んだ米ツアー4年目

2015/7/27 22:00

  • LINE
一歩でも前に進みたいと前年より2試合多く出場



 1996年。ボクの本格的な米ツアー挑戦は4年目に入った。

 前年の1995年は、それまでで最多の20試合に出場。賞金ランクも過去最高の66位に上昇した。日本のゴルファーのトップの一人としては満足しきれる成績ではなかったが、それでも着実に前進できている。そう思える数字は残せた。

 そこからさらに一歩でも前に進む。96年もそういう年にしたいと思っていたのは当然だ。そして、それを実行する自信もあった。日本でプロになり、賞金王を獲得できたように、米ツアーでも必ずもっと強くなれる。そう考えていた。傷つき倒れて這うような歩み方になってでも、絶対に前に進む。そういう戦いを粘り強く続けられることが、ゴルファー・尾崎直道の武器だからだ。

 そのために96年も年明け早々から米ツアーでの戦いをはじめた。

 2戦目の「ボブ・ホープ・クライスラー」は19位タイ。スコアも4日間で15アンダーまで伸ばすことができた。

「よし、ここからだ」と思ったのだが、それが気負いになったのかもしれない。直後の「フェニックス・オープン」と「AT&Tペブルビーチ」は、連続で予選落ちした。とくに「ペブルビーチ」は大好きなトーナメントだったから残念だった。大好きな、というのは「相性がよくて、よい成績が残せる」という意味になる場合が多いが、この試合は違う。特別な成績は残せなくても、ペブルビーチでトーナメントを戦えるというだけで幸せ。そういう気持ちにさせてくれる試合だった。

 このあとは1週休んで「ハワイアンオープン」に出た。予選を通過して3日目68、4日目67の11位タイでフィニッシュ。次の「ニッサンオープン」は40位タイ。さらに次の週の「ドラール・ライダーオープン」はベスト10に入った。

 優勝したのはグレッグ・ノーマン。2位にはビジェイ・シンが2打差で入った。ボクは2日目にその日のベストスコアとなる65(7アンダー)を出すなど、優勝争いにも絡んだが最後は6打差の6位タイで終わった。

 それでも「優勝」というものが見えた試合だった。勝てなかったが、次のチャンスにはもっと優勝に近づきたい。そんなことも思ったが、実際には逆の展開が待っていた。

 翌週の「ホンダクラシック」は最終日に78をたたいて72位タイ。その次の「ベイヒル招待」は予選を通過できなかった。

 ここまでは5週連続出場。次は1週間休んで相性のよい「TPC」に臨んだ。だがこの試合も予選落ち。これはショックだった。

 そのあとはしばらく休みを入れた。日本にも戻ったが日本ツアーには出ずに休養につとめた。そして米ツアーに戻り「グリーンズボロ・クライスラー」からは7週連続で戦った。

 7試合で予選落ちは1回だけ(7連戦の最後の「ビュイック・クラシック」は棄権)。最高成績は「マスターカード・コロニアル」の12位タイ。その他は21位タイ、23位タイ、48位タイ、58位タイだった。可もなく不可もなく、の成績といわざるをえない。予選落ちの少なさは以前なら「よし」とするところだが、4年目のこの年は、上位に食い込めなければ「前に進む」ことができない。フラストレーションが心の中に渦巻いた。

 この後も6月末から8月にかけて6試合を戦った。その中には「全米プロ」(8月11日終了)も含まれていたが、最高成績は「ウエスタン・オープン」(7月7日終了)の13位タイ。予選落ちも多く、成績を上向かせることはできなかった。

 結局、この年は前年よりもさらに多い22試合を戦った。前の年より2試合増えたのは、一歩でも前に進みたいと願った結果だった。だが「前に進む」ことはできなかった。予選通過は前年と同じ13試合。トップ10は1試合のみで前年より3試合減った。獲得賞金(22万7763ドル)は20パーセント以上減って賞金ランクも99位に後退してしまったのだ。

 この「減速」はかなりキツかった。

 日本ツアーでも減速がなかったわけではないが、今度の落ち込みは大きい気がしたのだ。そしてそれを跳ね返そうとする余裕が、このときのボクにはなくなっていた。


40歳になり衰えに対する不安が余裕をなくした

 第一は年齢的なものだ。1956年生まれのボクは、40歳になっていた。といっても、誕生日を境にして急激に体力の衰えを感じた、というわけではない。ただ、わずかながら「無理がきかなくなってきている?」という疑問は感じはじめていた。

 第二はトレーニングの問題だった。

 衰えに対する不安はスポーツマンが抱える宿命だ。だから若いときからトレーニングを積み重ねて、衰えを防ごうとしてきた。たとえばジャンボ軍団でやっていた「地獄のトレーニング」は1月のゴルフ界の名物だった。負けず嫌いのボクは次兄の建夫や飯合肇といった、すごい体力のライバルたちに負けまいとしてトレーニングに打ち込んだものだ。

 その後、一人でトレーニングをするようになってからも、年明けの1、2カ月は軍団でやっていた以上のハードトレをしてきた。

 日本のツアーは12月初旬で終わる。その年の内はイベントや仕事をこなし、正月は気持ちをあらたにして新年の誓いを立てる。それからトレーニングをはじめて、体をいじめる。3月からはじまる9カ月ほどのツアーの長丁場を乗り切れる体を作るためだ。体力の貯金を蓄えて開幕を迎え、少しずつ消化しながら1年間を乗り切っていく。

 そういうトレーニングが、米ツアーに行きはじめてからはできなくなった。年が明けたらすぐに渡米。そして試合がはじまる。1月からずっとトーナメントに出続けているために、体をいじめるトレーニングが不可能になった。

 もちろん「トレーニングは日常的なもの」というやり方もある。それも実践した。でも、集中して体を作るというトレーニングとは、違うものにしかならない。10何年も続けてきた自分のやり方を変えるのは、ゴルフのスイングを全面的に変えるよりも難しいことだった。

 もっとも大変だったのは、体調を考えながら試合を戦うことだった。

 オフに体作りができると、試合がはじまるときにはゴルフに集中できる精神状態になれる。ゴルフの戦い方だけに頭を使えるんだ。

 米ツアーではそれが難しかった。

 たとえばイメージどおりにボールを打てないとき。スイングの問題なのか、体のせいなのかの見極めができなくなる。その結果、頭がモヤモヤした状態でプレーに入る。すると、やるはずのないミスショットを打ってしまったりする。そういうことが繰り返されると、すごいストレスが溜まる。練習が計画どおりに進まなくなったり、食欲が落ちたり、眠りが浅くなったり……。いろいろなところに弊害が出てくるようになった。

 若いころなら、プレーを続けるうちに問題が消化できることが多い。でも40歳になったこのころから、さまざまなものが自分の内側に溜まっていくようになった。

 その結果、こんなことまで考えるようになったりした。

「いったい自分は、何歳までトーナメントで勝てるゴルフができるのだろうか」

 残された時間を意識すると、ストレスを溜めて足踏みすることがすごくキツく感じられてくるものなのである。


秋の日本ツアーで勝てる感覚を思い出せた

 このころ、日本では長兄ジャンボ、尾崎将司選手が無類の強さを誇っていた。年齢はボクより9歳上。96年は49歳で春先の「中日クラウンズ」を皮切りに日本のメジャー2勝を含む年間8勝を挙げた。獲得賞金は2億円以上。3年連続、10度目の賞金王になっていた。

 ボクは、自分の兄の凄さに驚愕していた。

「いったいジャンボはどこまで強くなるんだ。とてもじゃないがまねはできない。自分があの年になったときには、トーナメントで戦っていられるかどうかもわからない」

 そんな思いも抱くようになっていた。そうした不安も、米ツアーで足踏みしているふがいなさを強く感じる要因になっていたかもしれない。

 この年の日本ツアーは9月の「サントリーオープン」(9月5日〜8日。習志野CC。千葉県)が第1戦となった。この時期まで日本で戦わなかったんだから「直道はすっかり米ツアーの選手になっちゃったね」と冷やかされてもしかたがなかった。

 この試合は3日目を終えてトップとは3打差。だが肝心の最終日に73のオーバーパーをたたいて8位タイで終わった。優勝はコングこと飯合選手。ボクがずっとファイトを燃やしてライバル視してきたパワーヒッターの堂々たる勝ち方を見せつけられた。

 その後、日本ツアーを連戦していったが、パッとした成績は残せなかった。5戦を終えて最高は「日本オープン」(9月26日〜29日。茨木CC。大阪府)の5位タイ。優勝したピーター・テラベイネンとは4打差だった。

 そんな状況のなかでいきなり優勝のチャンスが巡ってきた。「フィリップモリス・チャンピオンシップ」(10月24日〜27日。ABCGC。兵庫県)。首位に8打差の大差でスタートした3日目は強い風の中でのプレー。全体的にスコアが伸び悩む中でボクは6バーディ、1ボギー。この日のベストスコア67をマークした。米ツアーで経験してきたタフな天候下での技術が生きた。これで一挙に首位に並んで迎えた最終日は5バーディ、3ボギー。前日よりボギーが増えたが、終わってみれば4打差で勝っていた。ボクにとって優勝は2年ぶり。ツアー通算23勝目だった。

 この試合の前身は「ラークカップ」。ボクは92年に優勝している。それも含めて通算8回出場し、7回も3位以内に入ってきた相性のいい大会だった。日本ツアーで1、2を争う高額賞金は変わらずで、このときの優勝も3600万円。ちなみに2位タイの一人はジャンボ。勝てなくても高額大会で上位を外さないあたりは「さすがアニキだ」と思った。

 結局、この年の日本ツアーは9試合に出て1勝。それでも賞金ランクでは6位に入ることができた。優勝した後に出場したツアー終盤の高額大会で8位タイ、2位タイ、3位と上位に食い込めた結果だった。

 日本ツアーに復帰した直後は今一つプレーが冴えなかったが、最後に勝てるゴルフの感覚を思い出した。そんな気がした。


来年こそは前に進める希望が胸に芽吹いた

 終わりよければすべてよし。

 本来なら、そういう明るい気持ちで一年を終われるところだ。だが、単純にそういう気持ちになれなかったのがこのころだった。

 1月からは、また米ツアーでの戦いが待っているからだ。

 翌1997年も、ボクは年明け早々から渡米して連戦をはじめるスケジュールを立てていた。だれに求められたわけでもない、自分で決めたチャレンジだったから、何かをつかむまではやり通すという気持ちは揺らいではいなかった。

「来年こそは、前に進める年になるかもしれない」

 そういう希望も胸の中には芽吹いていた。

 禍福はあざなえる縄の如し、ともいう。悪いあとはよいことが待っている、と昔の人は教えてくれている。自分にもそういう幸運が訪れるのではないか。そうなっても不思議はないくらい、必死の努力も続けていたのだ。

 すると不思議なことに、翌年はまさしく「あざなえる縄」のような1年になった。もがき続ける中で、プロゴルファーとしての生き様が大きく揺さぶられたのである。(次号に続く)





だれに求められたわけでもない。自分で決めたチャレンジだから何かをつかむまではやり通す。傷つき倒れても、前に進む戦いを粘り強く続けられることがゴルファー・尾崎直道の武器



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174㎝、86㎏。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

テーマ別レッスン

あなたのゴルフのお悩みを一発解決!

注目キーワード
もっとみる