連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

"勝負にこだわる"と宣言して乗り込んだ米ツアー5年目

2015/8/27 22:00

  • LINE
米ツアーでの獲得賞金が通算100万ドルを超えた



 1997年。満40歳で正月を迎えたボクのゴルフは、この年も米ツアーから始まった。

 自分にとっての開幕戦は『ボブ・ホープ・クライスラー』。61位タイながら予選を通って賞金が獲れたことで「まずは、よしかな」と思えた。

 翌週の『フェニックス・オープン』も予選は通過。46位タイとやや順位を上げられた。さらに次の週の『AT&Tペブルビーチ』は33位タイ。最初の3連戦は尻上がりの成績で終えられたのだ。

 1週間あけてスタートした第2クールは2月の3週から3月の5週まで、7連戦のハードな日程を組んだ。3月までに10試合をこなそうとしたのである。その間にしっかり賞金を積み上げて、翌年のシード権を確定させたかったからだ。

 シードが決まれば、その後は恐れることのないチャレンジができる。伸び伸びプレーできる状態にもっていける、と考えたのだ。

 じつはこの年は「勝負にこだわる」と宣言して米ツアーに乗り込んでいた。米ツアーでの初優勝を勝ちとる気持ちになっていたんだ。

 米ツアーでの戦いをメインに据えてから5年目。それまでの丸4年で、経験値は十分なレベルに達していた。前年は過去最多の22試合を米ツアーで戦ったが、満足できる成績は残せなかった。でも日本に戻ってからの戦いで、自分のゴルフがレベルアップしているという自信が得られた。

「いまの自分の力を発揮できれば、何度か優勝を争うことはできるだろう。そのうち1度は勝てるのではないか」と考えるようになっていたのだ。その1度の優勝が3月までに来れば、4月2週のマスターズの出場権も獲れる。米ツアーでの経験値を高めた自分が、オーガスタでどんな戦い方ができるか。そんな腕試しもしてみたかった。
だが勝負を賭けた第2クールは不吉な幕開けになった。『ハワイアンオープン』は71・71。2アンダーで予選落ちを喫したのだ。

 なんとか気持ちを切り替えて臨んだ『ツーソンオープン』は4日間5アンダーで27位タイ。一応、シーズンのベスト順位を残せた。そしてその次に出場した『ニッサンオープン』が記念すべき試合になった。

 初日は2オーバーの73だったが、2日目から69・68・69と60台を続けて通算5アンダーでフィニッシュ。9位タイ、ベストテンに入れたのだ。

 その結果、米ツアーでの獲得賞金が通算100万ドル
を超えた。当時の1ドルは120円ちょっと。1億20 00万円程度になる。ちなみに、このころの日本ツアーでの通算獲得賞金額は9億円くらい。金額的には日本の約7分の1だったわけだけど、それでも100 万ドルを超えたことはすごくうれしかった。長い間「プロの勲章は賞金額」だと考えてきたからだ。

 とくに米ツアーではシード権獲得を大事な目標にしてきただけに、賞金額に対するありがたみも強かったんだと思う。

 そして、この試合は僕の米ツアーでの通算98試合目だった。

 このころ「100試合が米ツアー優勝の目安」といわれていた。そこまで経験を積めば勝てるようになる、という意味だ。その直前に100万ドルを超せたことは吉兆だといわれたりもした。さらにモチベーションを高めることができたのである。


優勝争いに絡めず"撤退"を考えた

 しかし、その後は成績が上がらなかった。7連戦の残り4試合は全部予選を通ったが、順位は68位タイ、60位タイ、54位タイ、65位タイ。これでは賞金は積み上がらない。

 この状態は翌月以降も変わらなかった。4月第4週から第3クールの5連戦に挑んだが、そのうち2試合は予選落ち。最高順位は『グリーンズボロ』の25位タイ。米ツアー初優勝どころか、シード権獲得も困難な状態に追い込まれたのだ。

「やれる」と思ってトライした97年だったのに、実際にはやれなかった。優勝どころか、それを争うこともできなかった。それがショックだった。

「もう米ツアーは終わりにしようかな」

 ボクの心の中に、そんな気持ちが生まれてきた。

 こんな成績では、何年もかけてチャレンジしている意味がない。成績と声援が衰退したら、プロとしてのエネルギーがしぼんでしまうのではないか、という危機感ももった。しだいにボクの気持ちは「撤退」に傾いていったのだ。

 そんな状態で日本に戻り、6月から日本ツアーに出た。第2週から3連戦、1週休んで2連戦である。

 初戦は『JCBクラシック仙台』。67、68、67、69と60台を並べて2位タイに入った。佐藤信人選手が4打差で楽々逃げ切る展開だったので、緊迫したV争いにはならなかったが、前向きな気持ちになれた。

 翌週は『札幌とうきゅうオープン』。過去2回勝っている相性のいい大会だ。この年は通算4アンダーの8位タイに終わった。優勝した宮瀬博文選手と9打も差ができたのは、彼が2位に5打差をつけるぶっちぎりでの優勝だったためだ。

 翌週は『よみうりオープン』。3日目を終えて、首位はマルこと丸山茂樹選手。ボクは3打差の2位タイだった。最終日に65で猛チャージをかけたがマルも66。逃げ切られた。ボクは単独2位だった。

 3連戦をそれぞれ上位で終われたことは、米ツアーでなかなか上にいけないイライラを解消してくれる効果を与えてくれた。それによって気持ちの余裕が生まれたことが、次の試合で生きた。

 日本での第4戦目は『PGAフィランスロピートーナメント』。この試合でボクは、かつてない大差の優勝を飾った。

 舞台のメイプルポイントGCは94年開場の新しいコース。設計はピート・ダイ。米ツアーで第5のメジャーを目指した『トーナメント・プレーヤーズ選手権(TPC)』の舞台であるTPCソウグラスと同じ設計者だ。『TPC』との相性がよかったこともあってか、ボクは初日からトップに立ってそのまま独走した。スコアは66、64、68、69。通算17アンダー(パー71)は、2位に9打の差をつけるビッグスコアだった。

 これでボク自身のツアー通算勝利数は24になった。終身シードが獲れる25勝まであと1勝に迫ったのだが、そのことはあまり気にしていなかった。米ツアーのチャレンジを決めてから、日本の成績へのこだわりを捨ててきたからだ。この試合ではすでに「米ツアー撤退」を公言していたが、終身シードを意識しない、という気持ちは変わっていなかった。

 それは周囲も同じだったと思う。24勝目を挙げたときには41歳になって2カ月もたっていなかったときだ。これから日本ツアーに専念するなら、まだまだ勝てる年齢だ。25勝は必ずできるだろう。そんな雰囲気があった。

 だから翌週の『ヨネックスオープン広島』でも「勝てば終身シード」は意識しなかった。試合展開も、そういうものになっていった。


通算25勝で終身シードを獲得

 3日目を終わって首位に立ったのはプロ4年目、25歳の桧垣繁正選手だった。ただひとり、2桁の13アンダーまで伸ばしていた。単独2位のボクは5打も差をつけられていたのだ。さらに2打差には28歳の藤田寛之選手。この2カ月後の『サントリーオープン』でツアー初優勝を飾ることになる若手だった。

 ボクは、「簡単には勝たせないよ」と3日目を終わってコメントした。勝てるという意識はなかったけど最終日をおもしろくするのがプロの役目。18ホールを残して白旗を掲げるなんて、ありえないことだからだ。

 ところが最終日は意外な展開になった。スタートから1打だけ縮めて迎えた最後の9ホールで、桧垣選手がスコアを崩したのだ。ボクは3アンダーの33。通算12アンダーにして逆転優勝することができた。2打差の2位は藤田。桧垣は3位だった。

 終身シードがかかった通算25勝目が、2週連続優勝であっさり決まったのである。

 それ以前には5人が終身シードを獲得していた。杉原輝雄、青木功、尾崎将司、中嶋常幸、そして倉本昌弘の各選手だ。6人目としてその一員に加われたことは、大いなる名誉だった。

 そして、それがあっさり達成されたことは、自分がいちばん意外に感じていたかもしれない。そのせいか「やった!」と大喜びした記憶がないし、お祝いのパーティもしなかった。

 原因のひとつは次のスケジュールだった。

『ヨネックス』が終わった翌日には全英オープンに旅立つことを決めていたのだ。自然の条件が厳しい全英は、挑むだけで緊張する。さらにこのときは疲労感も積み重なっていた。

 1月から日米ツアーを掛け持ちしてきた。米ツアーでは結果を伸ばせずにストレスを溜めた。日本では結果が出たが、ずっと上位で最後は2週連続Vと緊張した。41歳になった体からは、重い疲れが抜けない状態だったのだ。


日本で戦っていたら……そのもしもに答えは出ない

 もちろんうれしくなかったわけではない。あっけなく手に入ったことと、次のスケジュールで頭がいっぱいだったから、喜ぶ余裕がなかったのだ。

 終身シードを獲得した喜びは、時間がたつにつれて大きくなっていった。25勝することよりも米ツアーを選んだのに、25勝が手に入ったのは大きな勲章だと思えるようになった。

 そして、これに絡んでそのころから現在に至るまで、質問され続けてきたことがある。

「もしも米ツアーにチャレンジせずに日本でフルに戦っていたら、通算勝利数を何勝まで伸ばせていたと思いますか?」

 これはまったくわからない。60歳近くになっても、この手の「もしも……」は答えが出ないものなのだ。

 たしかに、米ツアーで戦い続けた時間は、通算勝利数にはなんのプラスにもなっていない。一度も勝てなかったからだ。でも、その時間を日本で戦っていたらどれだけ勝てたか、という推測は不可能だ。どうなるかはわからなかったからである。

 もっと勝てていたかもしれないし、逆になっていたかもしれない。後者のネガティブなほうに転んでいた可能性もかなりある。なぜか。

 ゴルフは同じ技量を保てるスポーツではないからだ。

 体の異変も衰えも感じない。知識や落ち着きは増している。そんな条件でも技量=スコアメークの技術が後退してしまうときが、少なからずあるのがゴルフというものだ。

 一番危ないのは「保てている」つもりのとき。現状維持できている感覚のときは、実際には後退している場合がある。後退に気づかないと、悪くなる結果を止めることが難しくなる。原因がわからず、焦りの中で変えなくてもいいところを変えたりしてしまうからである。

 肉体的な変化が大きくなる40歳前後に、ずっと日本で戦い続けていたら、この状態に陥っていたかもしれないのだ。

 ボクはその時期に米ツアーで戦うことで、新しいモノを吸収できた。それがゴルフの幅を広げてくれた。プラスになったわけだが、その分だけスコアが減るわけではない。その間に失っていくものもあるからで、25勝を挙げたころには、その収支が結果的に少しプラスになっていたというような気がする。

 たとえば24勝目。ボクがぶっちぎりで勝てたのは、視覚的なワナがあるピート・ダイ的なコースをさらに難しく設定する米ツアーで戦ってきた経験のおかげだった。難しい状態のコースでスコアをまとめるにはどうすればよいか。その知識はアマチュアゴルファーにも役立つことなので、次号で詳しく説明したい。(次号に続く)






ゴルフは同じ技量を保てるスポーツではない。体の衰えも感じず、知識が増してもスコアメイクの技術が後退するときがある。後退に気づかないと、不調の原因がわからず、変えなくていいところを変えたりしてしまう。その時期に米ツアーで新しいモノを吸収できた。それがゴルフの幅を広げてくれた。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174㎝、86㎏。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

テーマ別レッスン

あなたのゴルフのお悩みを一発解決!

注目キーワード
もっとみる