連載コラム


舩越園子の全英オープン特別レポート
全英オープンの悲願 ロイヤルトゥルーンに「ありがとう」

  • LINE
ステンソンとミケルソンの一騎打ちとなった今年の全英オープン。ステンソンが見事、スウェーデン人男子として初めてメジャー制覇という悲願を実らせた。しかし、それ以外にも叶えられたいくつかの「悲願」を舩越園子はロイヤルトゥルーンGCで静かに見つめていた。


ステンソンの悲願
母国男子のメジャー初優勝



 ヘンリック・ステンソンが欧州ツアーの下部ツアーにあたるチャレンジツアーで初優勝したのは、2000年のルクセンブルクオープン。そのときステンソンは笑顔を輝かせながら、こういい切った。

「僕は絶対に全英オープンに勝つ」

 欧州ツアーのシード選手になったのは、その翌年。ルーキーイヤーにすぐさま初優勝し、前途洋々と思われた。ステンソン自身、クラレットジャグ(全英オープンの優勝杯)を掲げるまでには、さほど時間はかからないと信じていた。しかし彼は突然のスランプに陥り、坂道を転がり落ちるように成績が下降していった。

 闇の中から必死に這い上がり、04年に復活優勝。06年からは米ツアー参戦も開始した。07年には世界選手権シリーズのアクセンチュア・マッチプレー選手権を制し、09年には“第5のメジャー”と呼ばれるプレーヤーズ選手権でも優勝。プロ入り以来、ずっと勝利を夢見てきた全英オープンでは08年と10年に3位に食い込んだ。

 あと一歩でクラレットジャグをこの手に抱ける――そう実感し、自信を増大させた矢先、再び突然のスランプに陥った。悪いことは重なるもので、ちょうどそのころ、ステンソンは契約先の金融関係企業の勧めである投資に手を出し、その結果、大金を失った。

「投資の失敗と成績は関係ない」

 だが、成績は下がる一方で、11年には世界ランキングが一時230位まで後退。それでもあきらめず、ステンソンは再び這い上がった。

「以前のスランプに比べたら、この不調はたいしたものではない」

 12年の南ア・オープンで復活優勝。その翌年に迎えたのが、フィル・ミケルソンに敗れて2位になった13年の全英オープンだった。実をいえば、前週のスコティッシュオープンでもミケルソンが優勝し、ステンソンは2位だった。2週連続でミケルソンに敗れて2位に甘んじたステンソンは、その翌々週に世界選手権シリーズのブリヂストン招待でタイガー・ウッズに敗れて2位、その翌週の全米プロではジェイソン・ダフナーに敗れて3位。惜敗ばかりが続いていった。

 母国スウェーデンではメジャー10勝を挙げたアニカ・ソレンスタムを筆頭に、4名の女子選手がメジャー優勝を成し遂げている。だが、男子はイエスパー・パーネビックらもステンソンも、メジャーを制することができずにいた。

「その事実に、ずっと苦悩させられてきた」

 そして今年。40歳で挑んだロイヤルトゥルーンはステンソンにとって12回目の全英オープン、42試合目のメジャー大会だった。

「メジャー優勝のチャンスは、あと50回あるかといえば、そんなに残ってはいない。だからこそ今年そのチャンスを作り出し、モノにしてみせる。勝てるかどうか、勝率は5分5分だ」

 偶然か、必然か。最終日の優勝争いは3年前の再現を思わせるミケルソンとの因縁対決となり、その不思議な縁は互いに最高のパフォーマンスで競い合う最高の優勝争いへと発展した。そして、メジャー最少ストローク記録となる通算20アンダーでステンソンが勝利。駆け出しプロゴルファーが勝利宣言をした日から、実に16年の歳月を経て、ステンソンの悲願はとうとう叶った。

▲ポットバンカーの縁でクラレットジャグを掲げるステンソン 【写真=青木紘二/アフロスポーツ】




モンティの悲願
最後の全英にしたくはない



 ステンソンの16年は長い日々だった。我慢や努力、そのすべてが報われて本当によかった。しかし一方で、もっと長い日々を経ても報われることなく、シニアの世界へ移行していった選手や、フェードアウトしていった選手たちの存在も想起させられた。

 その筆頭は、今年のトゥルーンで4日間を戦った「モンティ」こと、コリン・モンゴメリーだ。

 スコットランド出身のモンティは90年代に欧州ツアーで8回も賞金王に輝き、通算31勝したビッグスターだった。しかし、どうしてか米ツアーでは1勝も挙げられず、メジャー大会でも何度も優勝争いを演じながら、どうしても勝つことができなかった。

 それは世界のゴルフ界の七不思議の1つといわれ、彼はアメリカでプレーするたびに口の悪い酔客にからかわれた。野次のあまりのひどさに「Be Nice to Monty(モンティにやさしくね)」と記されたバッジが全米オープン会場でギャラリーに配られたこともあった。

 そんなモンティも、すでに53歳。チャンピオンズツアーでは14年にメジャー2勝を挙げ、レギュラー時代に果たせなかった悲願をシニアの世界で叶えることはできた。

 だが、全英オープンで勝つことが、いまなおあきらめきれない。だからこそ今年モンティは地区予選の最終予選会の最後の3枠に挑み、父親がメンバークラブのセクレタリーを長年務めたロイヤルトゥルーンで自力出場を果たした。

 通算17オーバー、最下位から4番目の78位。惨憺たる結果だったが、全英オープンを制することは彼の永遠の悲願だ。

「ジ・オープンならではの屋外シアターのようなこの素敵な景観を、僕は心の底から楽しんだ。これが僕にとっての最後の全英オープンにならないことを祈っている」

▲モンゴメリーのこの独特の美しいフォロースルーを、来年のTHE OPENでも見たい 【写真=Matthew Harris/アフロ】




“ビーフ”の悲願
サンデーアフタヌーンを経験



 全英オープンで優勝すること。その悲願が叶った人、あるいは叶わぬままの人たちがいる一方、今年のトゥルーンで4日間プレーできたことが「悲願が叶った」と感じていた選手たちもいた。

 今大会で8位に食い込んだ英国のアンドリュー・ジョンストンは、もじゃもじゃヒゲの個性的な出で立ちと、豪快なゴルフと、陽気な笑顔で一躍人気者になり、トゥルーンの観衆は「ビ~~~~フ!」の掛け声で彼を応援し続けた。

 ジョンストンは昨年欧州ツアーにデビューしたばかりの27歳。BMW-PGA選手権でホールインワンを達成したことが、キャリア最高のハイライトだった。だが、今年のスパニッシュオープンでの初優勝が彼の最高のハイライトに取って代わり、そして今度は全英オープンでメジャー初のトップ10入りを果たしたことが最高のハイライトになった。

 “ビーフ”は子供のころに友だちがジョンストンの髪の毛を見て、からかい半分に付けたニックネーム。父親はバス運転手、母親はディナーレストランのウエイトレス。決して裕福ではない家庭に生まれ、大好きなゴルフを職業にできたことは「とんでもなく幸せ」と彼はいう。

「全英オープンのサンデーアフタヌーンに大観衆の前でプレーしてみたかった」

 そんなジョンストンの悲願は、ついに叶った。

▲よく見るとまだ若い、「ビーフ!」ことアンドリュー・ジョンストン 【写真=ロイター/アフロ】




サウスゲートの悲願
がんからの復活



 同じ英国人のマシュー・サウスゲートは自分がトゥルーンの72ホール目をプレーしている現実をしみじみと噛み締めていた。

「去年の全英オープンはテレビで観ていた」

 2年前、精巣腫瘍というがんの病魔に襲われ、手術を受けて命を取り留めたサウスゲート。彼は回復を待ってプロゴルファー生活に復帰してからというもの、癇癪を起こしがちだった以前のプレースタイルから忍耐強いプレーぶりへと自然に変化したことを実感している。

「病気が僕を人間としてもゴルファーとしても向上させてくれた。がんは神様から与えられたものだったんだと今は思える」

 命さえあればいい。ゴルフができたら、さらにいい。それ以上は望まないつもりだったサウスゲートは、自分が全英オープンの4日間を戦えたこと、そして最終日には69をマークして12位でフィニッシュできたことが「奇跡のようだ」と語り、うれし涙を流した。それは彼にとっての悲願が叶ったことを意味していたのだと思う。


市原弘大の悲願
アジア&欧州から世界へ



 あふれる涙を止められなかった選手がもう1人いた。日本の市原弘大は72ホール目ではなく、36ホール目のパーパットを捻じ込んで予選通過を果たしたとき、涙が止まらなくなった。

 2度目の全英オープン。初出場した12年大会は「最下位で予選落ちした。だから、もう1度と思っていた」。その雪辱を果たしたこともうれしかったが、明暗を分ける最後のパットを決めたことがうれしかったと彼はいった。だが、彼が涙をあふれさせた最大の理由は「自分だけじゃない。周りの人が喜んでくれること」だった。

 日本人選手の海外挑戦といえば米ツアーを目指すのが一般的だが、プロ転向後にまずアジアンツアーに挑んだ市原は、日本ツアーのシード選手になった以後もアジアから欧州を経て世界へ挑むユニークな道を自力で開拓しながら歩んでいる。

 チャンスがあれば挑み、ピンチに陥れば自力でチャンスをつかみに行った。12年に日本でシード落ちした翌年は早々にスペインへ飛び、欧州ツアーのQT(予選会)に挑んだ。すでにメンバー登録されているアジアンツアーのシード権獲得のためにも、全英オープンは賞金加算の大事な大会。トゥルーンで予選通過を決めた後、市原のバッグを担ぐ臼井泰仁キャディが「これでアジアのシードもいけそうですね」と話しかけると、市原はすかさず「半額加算だよ」と即答したとのこと。

 米ツアーに関する情報は豊富だが、アジアや欧州のそれは決して多くはなく、複雑なシステムを理解しながら歩むのは大変なこと。しかし、市原はキャディやチームの協力を得ながら、そうやって道を切り拓く努力を続けている。トゥルーンの36ホール目のパーパットを捻じ込んだ瞬間、彼が噛み締めたものは、そうした諸々すべてが報われ、みんなで一歩前進できたという想いだったのだろう。

 その想い、その瞬間、彼の悲願は叶ったのだ、といいたい。

 そして、たくさんの悲願を叶えてくれた今年のロイヤルトゥルーンにも、「ありがとう」といいたい。

▲決勝ラウンドに進み、全英を「楽しんでいる」ようにも見える市原 【写真=青木紘二/アフロスポーツ】

テーマ別レッスン

あなたのゴルフのお悩みを一発解決!

注目キーワード
もっとみる