連載コラム

三好徹-ゴルフ互苦楽ノート

ゴルフと平和の微妙な関係

2017/3/1 21:00

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第一回全英オープンが開催された年日本では井伊大老が桜田門外の変で…
イラスト=松本孝志



 年末年始のテレビ放送は、どの局も特別番組を制作して放送することが多かった。有力歌手のほとんどが出演していた歌番組が圧倒的な力を持っていたころは、どの局も無抵抗に近かったが、それではダラシないではないか、という反省とレジスタンス精神が生れてきたのである。といっても、何か番組を作るには金がかかるから、大がかりな番組は制作できない。

 その点で都合がよかったのは、プロゴルフの有名選手を起用してのゴルフ番組である。男女とも高額の賞金のかかった試合は12月初旬に終了しているし、日程の都合がつけば、撮影は一日ですむ。日本の官庁の、仕事は12月28日の午前まで、年明けは1月4日からという休みのシステムも、テレビ局側にとっては好都合である。欧米の場合は、中心になるのは元日ではなくてクリスマスだが、日本のように約一週間の休みという慣例はない。もともと日本の暦日は中国から伝来したものだから、太陽を中心にした陽暦ではなくて、月を中心にした陰暦だった。それはともかくとして、ゴルフの場合も、その技や師弟の関係などは、来日した外国人教師の影響が大きかった。またアメリカに留学した財産家の息子が、ゴルフ場で働いていたプロ志望の若者たちに教えた。今では信じられないことだが、ゴルフのプロは、ゴルフ場にきても正面の出入口から出入りすることを許されなかった。

 なぜか。

 理由として納得できるものはないが、要するに身分の違いである。ゴルフ場で働く労務者が、ゴルフ場に遊びにくる貴族やその仲間と同じ出入口を使うことは許されなかった。日本のもっとも古いプロである宮本留吉の回想録にも、その身分差別のエピソードはある。

 アメリカのウォルター・ヘイゲンというプロは、一九二〇年代に活躍したプロだが、イギリスに招かれて出かけた。ヘイゲンは、ベン・ホーガンや、マスターズの創始者のボビー・ジョーンズらの一世代前の名手である。その名声はイギリスにも伝わっていて、皇太子に招かれたのだ。この皇太子はのちに、アメリカのシンプソン夫人と強引に結婚するために国王の椅子も投げ出したロマンチストだったが、そういうスキャンダルの前に来日したことがあって、そのときは日本の皇太子(のちの昭和天皇)とプレイした記録も残っている。

 ヘイゲンはイギリスのゴルフ場で玄関ではなくて横の従業員出入口に回れ、といわれると、どなり返した。
「このゴルフ場は、皇太子の友人をドア・ボーイのように扱うのか」

 この一言で勝負あり、である。

 四民平等はデモクラシーの原則だが、この理念を日本にもちこみ、かつ普及させたのは明治時代の政治家で土佐出身の板垣退助である。板垣が日本の学校教育でどう扱われているか、くわしいことは知らないが、明治時代の初期に、彼の四民平等に反対する刺客に襲われたとき、

「板垣死すとも自由は死せず」

 といった逸話はよく知られている。かつて板垣をテーマに作品を書いたことがあるので知っているが、この言葉は刺客に襲われたときにいったものではなくて、病院に運びこまれて手当を受けたあとに、そういう意味のことをいったのだ。むろん、そのころの日本人でゴルフというゲームを知っているものはいなかった。維新後の明治四年に岩倉具視を団長とする欧米視察団が欧米へ行くが、その報告書の中に欧米各国民の体育についてゴルフやサッカーに触れたものはなかった。

 つけ加えておくと、ゴルフの第一回全英オープンが行われたのは、一八六〇年(万延元年)日本では井伊大老が桜田門外で水戸浪士らに襲われた年だった。第一回の全英の参加者は八名だった、とされているが、ゴルフに関するエピソードは現代史にも通じている。10年くらい前だが、ゴルフ仲間といっしょにスコットランドの名コースめぐりに行ったとき、セントアンドリュースのオールドコースの北にあるカーヌスティで、どきりとしたことがある。ティショットのあとに第2打地点でアドレスしてクラブヘッドが地面に触れたとき、何か固いものに触れたのだ。

 変だな、何だろう、と感じて地面に手を触れてみると、岩ではなくて、芝の下の地面はコンクリートのように思えたのだ。見ていたキャディが声をかけてきた。

「そこからワンクラブのところにドロップしていいよ。元は飛行場だったんだ」

「ということは、第二次大戦のとき、ここはドイツ空軍のロンドン爆撃を迎え討ったスピットファイアーの基地だったのか」

「ザッツ・ライト」

 とキャディはいった。

 ドイツ空軍のメッサーシュミット戦闘機は空中戦の能力は高くても、航続距離が短くてロンドン上空で、エンジンフル回転で英軍機と戦うと、自分たちの発進基地に戻るまでの燃料を残せなかった。

 日本軍のゼロ戦は操縦席の防弾装置を薄くしたので長時間の空戦に耐えられたが、ドイツ空軍は操縦席を厚い鉄板で保護したから機体も重くなった。ゼロ戦は圧倒的に強かったが、米軍はその欠点を看破すると、空戦能力を二の次にして双発の戦闘機を開発した。ゼロ戦の機銃弾では、戦闘機なのに双発で空戦能力の低い敵機を倒すことが難しくなったのだ。

 それにしても、第一次大戦の終った一九一八年から日中戦争の始った一九三七年までの約二十年間しか平和な時代は続かなかった。それが終ってから昨年まで七十一年間、ベトナムや最近のリビア、シリアでの紛争を別として、空陸海の大規模な戦火はおさまっている。いつまでそれが続くのだろうか…。

三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けている作家。

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