連載コラム

三好徹-ゴルフ互苦楽ノート

ゴルフとの関わり方

2014/3/21 21:00

  • LINE
ゴルフをはじめるときにショップ定員がすすめたのはピンのアイアンセットとベン・ホーガンのウッドで……



 私事で恐縮だが、ゴルフをはじめたのは昭和50年、1975年の秋だった。わたしをふくめて同年代の作家3人が、K出版社の役員にすすめられてゴルフをはじめたのだ。3人とも昭和ヒトケタの生れで、仕事の合い間の気分転換は四角のグリーン卓、つまりマージャンだった。

 たいていは夕刻の日暮れどきに赤坂の小さな旅館に集って、夜中まで、ときには翌朝まで勝負するのだが、あとの一人も同業だから、雑誌の締切りも同じことが多い。原稿を書いたあとに集ってくるわけだから、体力的には4人とも疲れているにもかかわらず、たいていは6時間くらい打つのだ。そのころは自動式の卓はまだ一般化していなかったから、自分たちがかきまぜて積むのである。別に力は必要としないが、負けるとこれが妙に疲れるのだ。

 4人の中のSが、あるとき四角いグリーンの召集をことわった。何か用があるのか、と聞くと、疲れているので、という。原稿の書き疲れは別に珍しくはないし、むしろ当り前といっていいのだが、そのときは無理に誘わずに、別の人に加わってもらった。それで一件落着だったが、数日後にSの疲れがゴルフの練習に行って、何箱も打ったからだ、とわかった。出版社の役員がSを誘い、ある程度打てるようになったらコースの予約をとって、同伴プレイをする計画だということもわかってきた。その役員はもちろんゴルフ好きで、社長をはじめ、部長たちも大半はゴルフをするというのだ。

 そこまでは別に何ということはないのだが、社長室のM主任がわたしのところへきて、Sさんがはじめたのだからいっしょにどうですか、もうひとりのIさんもSさんのことを耳にして、興味を持ったようです、という。

 重そうなバッグをキャディに運ばせて、ふんぞり返った感じでプレイをするゴルフに、わたしたちは何かしら反感を抱いていた。いわゆる食べず嫌いなのだが、それだけではなく、ブルジョア趣味に対する反感のあったことは否定しない。Sの父は海軍軍人だったが、敗戦で失業し、自宅を改造して雑貨の小売業をはじめた。Iは学校の教員の子で、食えないときは売血もしたという。わたしはサラリーマンの子で、授業料の安い国立ならいいが、私立は入学金も授業料も高いから進学を認めない、といわれていた。だから、わたしの兄も弟も国立を出たし、姉の高女も都立校なのである。

 こういう育ちだったから、ブルジョアにもブルジョア的遊びにも反感を持つのは自然なことだった。授業料と教科書代は親から貰ったが、映画代や本代は夏と冬のアルバイトでまかなった。都心のMデパートの臨時セールスマンは1日9時間で200円だった。多くは10日間だったから2000円である。年によって2週間というときもあったから、2800円になった。

 やがて卒業して新聞社の入社試験に合格したときの給料は、3ヵ月の見習い期間中は税こみ6000円、見習いがとれて正式に社員になったときは8000円、ほかに超勤手当もついてそれが3000円だった。税金、組合費、健保料などを引かれて手取りは全部で9000円くらいだった。近くの喫茶店のコーヒーは50円、会社の社員食堂はラーメン30円、すしは55円と安かった。タバコはピース40円光30円。

 本題に戻ると、社長室M主任から連絡があって、要するにためらっていたIも説得に応じて、いっしょにゴルフをやることになり、用具については社長がプレゼントすることになったのでご心配なく、という話である。どういう経過か、と問うと、作家によい作品を書いてもらえば出版社も儲かるのだから、用品代などは安いものだ、ゴルフをして作家の皆さんに健康になっていただくのは、出版社の利益にもつながる、それがK社の方針なのです、と説明してくれた。

 正直に書くと、わたしはあまり乗り気ではなかったし、ゴルフのクラブ(アイアン、ウッド、パター)やシューズなどの値段も知らなかった。しかし、何はともあれ現物を見てみよう、と考えて、IとともにMの案内でK社行きつけの池袋のショップに行った。

 わたし自身は、ゴルフに関しては、知識と呼べるほどのものはなかった。ただ、日本で行われたカナダカップで来日したサム・スニードや二度目の大会で来日したアーノルド・パーマーとかジャック・ニクラスの名前は中村寅吉とともに知っていた。あるいは、ベン・ホーガンが何やら大きなカップを抱いている姿をニュース映画で見たこともあった。

 ゴルフ用品の店で、店員がわたしにすすめたのは、ピンのアイアン9本セットとベン・ホーガンのウッド4本だった。わたしは値段に驚いたが、Mは社長室に請求書を送るように店員にいい、そのあと喫茶店でコーヒーを飲んで別れた。

 今ならいえるが、あのゴルフ用品の店は、金儲け専門でゴルファーに対して実に不誠実だったと思う。なぜなら、ピンのアイアンは初心者向きだが、ベン・ホーガンのウッド(ことにドライバー)はプロか上級アマしか使いこなせない品なのだ。高級品だから高価でもある。そんなことを承知でこれからゴルフをはじめるわたしたちに売ったのは非良心的である。

 半年後にわたしはゴルフ好きの近所の医者にいわれてやさしいウッドを買った。今ではメタルのせいもあってスライスはめったに打たないが、それは練習ボールを1日5箱(24個入りで120個になる)3ヵ月は打ちなさいといったゴルフ狂のアドバイスを受け入れたからではない。同時にゴルフをはじめた3人がマージャンのときのようにすぐにゴルフ行きのスケジュールがまとまり、それにK社以外の出版社員のゴルフ好きも入るので月に6、7回はコースに出るようになったのだ。わたしのコーチは本で、有名なホーガンの「モダンゴルフ」以外にもたくさんの本を読んだ。こんな身辺雑記を書くのは初めてだが、この欄は前回で100回になったと教えられ、今回から私小説的なものを入れる気になったわけである。

三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けてきた作家。

テーマ別レッスン

あなたのゴルフのお悩みを一発解決!

注目キーワード
もっとみる
閉じる