連載コラム

舩越園子 サムライたちの記憶

丸山茂樹

2014/5/15 22:00

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プロ中のプロだけがもつ強運と魅力

▲米ツアー3勝目のクライスラー・クラシック。深刻な首痛に負けず優勝した



 いま、思えば、わたしが米ツアーを取材しはじめてから今日までの約20年のなかで、その半分近い年月に丸山茂樹の存在があった。いま、思えば、彼には比類なきマルチな才能があった。そんな彼が米ツアーにいてくれて、彼を取材し続けたことで、わたしはずいぶん多くのことを知ることができた。丸山が米ツアーに来てくれたこと、居てくれたこと、そのおかげでいまのわたしがあり、いまのわたしが居る。それぐらい彼は周囲に多大な影響を及ぼす偉大な選手だったと、いま、あらためて思う。

 丸山が米ツアーにスポット参戦をはじめたのは90年代終盤だった。99年WGC‐NEC招待(現WGCブリヂストン招待)で6位に食い込み、スペシャルテンポラリーメンバー(STM)資格を満たした丸山は、その翌年の2000年から米ツアー本格参戦を開始した。

 当時の丸山は鳴り物入りで米ツアーにやってきた日本のお山の大将という雰囲気だった。いや、丸山自身がそうだったという面もないことはなかったが、彼をつねに囲んでいた日本メディアの群れが、その雰囲気をつくっていたというほうが正確だ。そこから発信される報道は、丸山がいまにも初優勝するかのごときトーンばかりで、もちろん丸山だって、初優勝をすぐそばに感じていたに違いない。

 けれど、米ツアーで勝利を挙げることは想像以上に厳しく、遠く、ついに彼のルーキーイヤーは未勝利のまま過ぎ去っていった。日本メディアの人数は激減し、やがてゼロになった。わたしが丸山と親しく言葉を交わすようになったのは、そのころからだった。


愛される存在

 傍から眺めていた丸山は、陽気で饒舌で人懐っこい性格に見えた。そういう一面はたしかにあった。だが、よくよく話をしてみると、彼の胸の中には、むしろ寂しさ、辛さのほうが大きく広がっていた。

「ロッカールームでも僕が座る椅子はない。大きくて立派なソファはタイガー・ウッズやフィル・ミケルソンやアーニー・エルスたちのためのもの。小さなソファやベンチだって、そこに座るべき選手が大勢いる。僕なんかは小さな折り畳み椅子を持ち歩いて、隙間にちょこっと座れればいいほうで、僕の居場所なんて、ない……」

 米ツアーに来て1年が経つか経たないかという当時の丸山は、英語がほとんどわからず、親しい選手もほとんどおらず、孤独感や場違い感にさいなまれ、精神的にいっぱいいっぱいの様子だった。

 米メディアからは「いつもニコニコしている」「英語ができなくてもジェスチャーでコミュニケーションがとれるパフォーマー」などと持ち上げられ、丸山自身もそう努めていた。だが、不調で不甲斐ないラウンドになり、苛立ちを募らせているときに「ギャラリーから『シゲーキ、スマイル!』なんて声をかけられると、こんなときに笑えるわけないだろう、俺はピエロか、て腹が立ちながらも、結局笑うしかない自分に、余計に腹が立つ」と、自分の在り方に悩んでいたこともあった。

 日本でスター扱いされ、もてはやされて、すでにビッグな賞金も稼ぎ、前途洋々であるはずの選手であっても、海外のツアーに来るとそういう淋しさを感じ、壁にぶつかるものなのだという事実が、当時のわたしには、初めて見知るおどろきでもあった。

 だが、それ以上におどろかされたのは、丸山のボキャブラリーの豊富さ、たとえ話のうまさ、表現力の素晴らしさだった。なにかの才能に長けている人間は別の才能にも長けているものなのかなと、そのころは思いもしたのだが、それは大いなるカン違いで、丸山茂樹という人がゴルフにも話術にもおどろくほど長けていたということは、以後、さまざまな日本人選手に接していくうちにわかったことだった。

 丸山ってすごいなあ。そう感心させられることは、その後も次々に出てきた。練習場で球を打ちはじめると、その熱心さは人一倍。スイングや小技のテクニックに関することはいうまでもなく、クラブに関することは、それ以上に熱いものを感じさせた。

「僕はヘッドの内側までチェックするためにレントゲンだって撮る」

 そう聞かされたときは感嘆の声を上げてしまった。それほどクラブに熱心な選手は米ツアーでも数えるほどしかおらず、その“クラブおたく”つながりで、彼はニック・プライスのような偉大なメジャーチャンプから可愛がられるようになった。

 日本ツアー時代はパットのうまさに定評があったようだが、米ツアーに来てからは、とにかくパットに苦悩しはじめた。悩んで苦しんで練習グリーンで何時間もパットし続ける丸山の姿を見て、“パットの名手”ブラッド・ファクソンがにじり寄った。丸山は素直に助言を聞き入れ、それで救われたこともあった。

 米ツアーで居場所がないなんて嘆きながらも、丸山は少しずつ自力で周囲に馴染んでいき、いつしか先輩プロたちから愛される存在になっていた。それもまた彼の才能のひとつだったのだ。


強運の神様

 01年のグレーター・ミルウォーキー・オープンで初優勝、02年のバイロン・ネルソン選手権で2勝目を挙げた丸山は、アメリカ生活にも米ツアーにも本当の意味で慣れてきて、自信も勢いも増し、上昇気流に乗っていた。

「僕には強運の神様がついている」

 運のおかげもあった。そういいながらも、じつをいえば、このころからすでに丸山は自分と欧米選手たちの肉体差から来るパワーの差、飛距離の差を痛感し、危機感を募らせはじめていた。得意の巧みなたとえによれば「僕は軽自動車。欧米選手は大型トラックみたいなもの。それが同じ場所で戦っているんだから……」。

 とはいえ、米ツアーで戦う厳しさ、シード権を維持し続けるむずかしさを肌で感じていた丸山は、米ツアーという舞台に自分が居続けることに誇りを抱いていた。

「アメリカでシード権を確保している125人っていうのは選ばれし人たち。僕もその中のひとりだけど、カラダも弱いし、ケガも多いし、治りにくい。だから、そんなに長く続けられない気がする。せいぜい、あと10年。それまでは自分の心の根っこを腐らせずにがんばりたい」

 その言葉は自分を叱咤激励するためのものだったのだろう。彼は「10年は絶対がんばるんだ」と自分にいい聞かせていた。

 03年の春にインタビューをしたときは、しみじみ、こんなふうに語っていた。

「この米ツアーは世界一のフィールドだ。そこでひとつ自信を失うと、とことん落とされる。川の中に1度足を突っ込むと、どんどん流されそうになる。僕ら選手はそんな川の川沿いのぎりぎりに立っているのと同じなんだ」

 すでに彼の中で肉体に対する危機感があったのかもしれない。それから間もなく丸山は深刻な首痛を発症。だが、それでもその年のシーズン終盤、クライスラー・クラシック・オブ・グリーンズボロで3勝目を挙げた。

 あのときほど丸山が強い星の下に生まれついているのだと感じたことはなかった。絶体絶命か、キャリアの終焉かというほど深刻な首痛に悩まされ、日米双方の医師を訪ね、注射やアイシング、マッサージ等々、考えられるあらゆる方法と努力で故障を乗り越えて勝利をつかんだのだ。

「希望だけは捨てなかった。絶対にあきらめないと決めていた。大事なのは、ワンチャンスをモノにできるかどうか。そして僕はそれをモノにできた。がまんして努力していれば、人は報われるんですね」

 シネコックヒルズで開催された04年の全米オープンでは、丸山の優勝の可能性を感じながら、灼熱の太陽の下、興奮しながら取材した。あの4日間を、いまでも鮮明に覚えている。

 残念ながらメジャー優勝ははたせなかったが、日本メディアのみならず欧米メディアの興味や関心も強く引きつけたあのときの丸山は、おそらくわたしが見た中でもっとも大きく見えた丸山茂樹の姿だった。

 欧米選手たちとの肉体差、パワーの差、飛距離の差を小技のうまさと頭脳プレーでカバーし、米ツアーで3勝をマークした唯一の日本人男子選手。研究熱心、練習熱心で培ってきたものを一打一打に集約させる高い集中力、実行力の持ち主。緊張する場面では、セットアップに入る前に必ず小さく咳払い。それが「よし、行くぞ!」といっているかのようで、わたしは彼のそのルーティーンが大好きだった。

 そんなふうにメディアであれツアー仲間であれ、だれからも好かれる丸山の魅力。それは、きっと彼が相手に対してリスペクトを払う人間だったからだろう。そりゃあ丸山だってわがままにもなり、ふて腐れたりしたこともしばしばあったけれど、彼は最終的には「ありがとう」を決して忘れなかった。ときに言葉にして、ときに握手に込めて、感謝の念を伝えてくれた。

 あのシネコックヒルズで4日間を終えたときも、真っ黒に日焼けしてしまったわたしの顔や腕を眺め、「うわっ、真っ黒くろすけだよ」といいながら、右手を差し出し、ありがとうの固い握手を求めてきた。

 いろんな才能と魅力を備え、観衆を魅了し、関係者からも愛されて、なにより結果をきっちり出してきた丸山は、世界という大きな舞台に挑むトッププロらしいプロだった。そんな丸山茂樹だったからこそ、わたしは彼の取材に夢中になり、彼を伝える原稿を山ほど書いてこれたのだと、いま、しみじみ思う。

▲米ツアー初優勝のグレーター・ミルウォーキー・オープン

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