連載コラム

三好徹-ゴルフ互苦楽ノート

ゴルフの真髄

2014/6/23 21:00

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ジーン・サラゼンをはじめとして来日したメジャー勝者たちとアマプロ戦などでまわったが…



 わたしたちアマチュアの立場から、プロゴルファーをどう見るかというと、人それぞれで、同じ見方をすることはほとんどない、といえるのではないだろうか。ごく単純に、実在しているゴルファーを好きか嫌いか、という問題に限っても構わない。というのは、そのゴルファーを好ましいと感ずれば、TVで見るスイングを自分のスイングに取り入れたくなるだろうし、ゴルフ雑誌などに掲載されている写真や解説なども参考にするのではあるまいか。また、それ以前に好むタイプによって、その人のめざすゴルフがわかってくる。

 わたしがゴルフをはじめたころは、いわゆるビッグスリーがプロゴルファーの代表的な存在だった。アーノルド・パーマー、ゲイリー・プレイヤー、ジャック・ニクラスである。プレイヤーは南アのゴルファーで、若いころに日本で行われたカナダ・カップに出場したことがある。最終日のベストスコアを出して、規定の賞金100ドルを手にしている。

 この大会は第5回で、日本は第2回から参加した。第1回の参加はわずか7国で、第3回に25、第4回に29、そして第5回で30になった。うたい文句の?ゴルフのオリンピック?は、第3回から何とかそれらしくなったといってよかろう。もともとは、この大会を創設した人はジョン・J・ホプキンスという財界人で、当時アメリカ大統領だったアイゼンハワーと親しくゴルフ仲間でもあった。ホプキンスはゼネラル・ダイナミックの社長で、カナダ太平洋航空の社長も兼任していた。その関係で、カナダをスポーツの分野でも世界のトップクラスにしたいと思い、アイゼンハワーの助言もあってゴルフの世界大会を開催することにした。参加選手の旅費、開催地での宿泊費、ゴルフコースに対する謝礼、選手に出す賞金などもホプキンスが負担した。だから大会名もカナダ・カップにできた。

 参加国もふえて、どうにか世界大会らしくなったにもかかわらず、アメリカは団体個人ともに優勝できなかった。大統領がそのことで落胆しているという情報で、全米ゴルフ協会は、サム・スニードとベン・ホーガンを説得した。スニードは簡単に米国代表になることを承諾した。だが、ベン・ホーガンはことわった。もともと旅行嫌いだった。第4回の会場はイギリスで、コースはロンドン郊外のウェントワースだが、ホーガンはメジャー以外には興味がなかったのだ。スコットランドの全英オープン(コースはカーヌスティ)に出たときは、一ヵ月前に船で行き、先輩のジーン・サラゼンに紹介されたキャディをやとい、ほとんど毎日ラウンドしてコースを研究し、天候の変り具合いなども体験した。はるばる海を渡ってイギリスに行くのは一回だけ、と決めていた。

 実は、ホーガン自身は、全英オープンに対して、さほど関心はなかった。しかし、サラゼンだけではなく、ボビイ・ジョーンズからも、もっとも歴史のある大会に出場するのは、ゴルファーとして意味のあることだ、といわれたので遠征したのである。それも空路は好まなかったから船にした。だから、カナダ・カップに出る気はなかったのだが、大統領まで米国代表のこれまでの不成績に気落ちしている、と聞かされて、ホーガンは出ることにした。

 ホーガンとスニードの米国チームは優勝し、ホーガンは個人優勝も達成した。ホーガンとしては、それで充分であり、第5回の東京へ行く気は全くなかった。代りにジミー・デマレーが代表になることを承諾した。マスターズ3勝で、ゴルフ界きっての伊達男といわれていた。チーム優勝2000ドル個人1000ドルである。4日間のベストスコアを独占すれば400ドルになる。個人としてはチームの賞金の半額も計算できるから、合計して2400ドルになる。

 このころ、アメリカのプロツアーで年間賞金王になったボブ・トスキの額は約5万ドルだった。それを考えれば、日本にくる費用その他は1セントもかからないこの試合は、スニードやデマレーにすればおいしい話だった。ところが、勝ったのは日本チーム(中村寅吉、小野光一、中村は個人優勝)だった。また、この試合のテレビ放送が日本で最初のゴルフの実況中継でもあった。主催者に加わった読売新聞だけではなく各新聞が大きく報じたから、日本にゴルフブームが起きた。

 実は、スニードは日本に到着した翌日、会場の霞ヶ関CC東コースの練習ラウンドであっさり66を出した。コースレコードは69だったから、関係者は、これで勝負は決したようなものだと感じたらしい。さらに大会初日は、スニード67デマレー69。日本は中村68小野73。そして、2日目から中村は68スニード74、3日目中村67スニード71、4日目中村71スニード69、結局2日目のスニードのスコア74が敗因だった。

 このころはゴルフというスポーツはメインではなかった。わたしはゴルフのゴの字も知らなかったし、ベン・ホーガンもスニードも知らなかった。パーマーもニクラスも無名だった。わたしもまだ小説を書いていなかった。いや、習作めいたものを書いていたかもしれないが、それを職業にする気はなかった。現実にゴルフクラブを手にし、コースに出るようになり、同じころにこのスポーツをはじめた同世代の作家といっしょに夏は北海道、冬は沖縄へゴルフ旅行をするようになったときは日本でのカナダ・カップから10年以上も時間が経っていた。ただ、わたしはゴルフをはじめると、その歴史も勉強したからボビイ・ジョーンズも知ったし、彼の著作も読み、ジーン・サラゼンや彼より先輩になるウォルター・ヘイゲンのことも知った。サラゼンとはのちに9ホールだったが、来日した彼といっしょにプレイできたし、来日したメジャー勝者スコット・シンプソン(全米オープン)やマーク・カルカベッキア(全英オープン)などとアマプロで同組で回ることができた。しかし、ゴルフとは何かについて学んだとは思っていない。またアマプロで多くのプロに教えていただいたが、ゴルフの真髄について触れたという気はしない。ただ、ゴルフ雑誌の企画でアマチュアの中部銀次郎氏と合計30時間くらい話し合ったことで、いくらか悟ったことはある。それは何か。数行では語れないので、以下は次号に。

三好 徹
1931年東京生まれ。読売新聞記者を経て作家に。直木賞、推理作家協会賞など受賞。社会派サスペンス、推理、歴史小説、ノンフィクション、評伝など、あらゆる分野で活躍。ゴルフ関連の翻訳本や著書も多い。日本の文壇でゴルフを最も長く愛し続けてきた作家。

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