連載コラム


プロテスト

2014/6/20 21:00

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コースマネジメントに集中した研修生時代

 自分の力で家を建てて、家族を養うのが男の仕事。そのために、スポーツで身を立てようとした僕は、プロゴルファーになる道を選んだ。

 プロになるために、高校に入るときから素振り中心の練習をはじめた。なんとか日本ジュニア選手権に出られたら、そこで同世代のすごいライバルたちの実力を知った。そして、いち早く追いつくために大学には進まず、研修生になったんだ。そこで見つけたのが「20歳でプロテストに合格する」という具体的な目標だった。

 なにかを成し遂げるには、時間を決めて具体的な目標をつくりなさい。いまはこういうことが当たり前のようにいわれる。でも僕にはそんな意識はなかった。故郷の成人式にはプロゴルファーになって出たい。ただ、そう考えていたんだ。

 プロになれる保証はなかったけど、「やれる」と信じていた。研修生として腕を磨いているときも、「合格できなかったら?」という心配はしなかった。それがよかったと思うのだけど、その意味はあとで説明する。

 高校を出た僕が研修生になったのは習志野カントリークラブ(千葉県)。ジャンボの所属先だった縁で、寄宿していたジャンボの家からも近かった。このころ習志野には6〜7人の研修生がいた。

 研修生にはコースの仕事をしながら練習する、というイメージがある。でも僕はゴルフ場には所属しないフリーの研修生だった。バッグ番(キャディバッグを受け取る仕事)やキャディなどをやらずに練習やラウンドができた。環境としては、とても恵まれていたと思う。

 平日の午前中は、近所の練習場でボールを打った。自分の好きな数だけボールをリヤカーに乗せて、奥の打席に運んでマイペースで打てた。併設のショートコースも自由に使わせてくれた。それから昼食を食べに家に戻って、また練習場に帰ってくる。で、二時ごろに習志野に行ってラウンドする。そんな毎日だった。

 ラウンドは、研修生同士でハーフをまわった。僕は負けたことがなかった。負けた記憶が残っていないくらい、スコアをつくるのがうまかった。

 負けず嫌いな性格が人一倍強かった。それが第一の要因だろう。でも、それだけではダメだよね。自分の思いを具現化するなにかがないと、結果は残せない。その方法を僕はこのときに身につけた気がする。

 いまはスイングからはじめることが常識になっている。理屈にかなっていて、見た目もきれい。飛距離が出るのに曲がらない。そういうスイングを身につけることが最初の課題、という考え方だ。

 僕のやり方は違っていた。打ち方は気にせずコースマネジメントに集中したんだ。

 まず、ひとつのホールの攻め方を考える。その当時は「どうすればパーが獲れるか」を考えた。それは「ボギーを避けるにはどうすればいいか」ということになる。そうして「あそこに行かせないためにはどうすればいいか」を決めたら、あとはそこに行かない狙い方を、これも徹底した。「左のOBは絶対に逃げなきゃいけない」というときは徹底して右を狙う、というようにね。

 左に飛ばさない構え方をする。左に曲げない打ち方をする。そういう方法を決めたら、スイングの形は気にしない。そういうゴルフを毎日やっていた。そのおかげで、スコアをつくる力が着実についていった。そして、それがプロテストを受けたときの武器になった。




最後のチャンスを“やり直し”で合格

 最初のプロテストを受けたのは研修生になった翌年。1976年だった。当時のプロテストは春、秋の年2回。最初は春で見事に落ちた。3打か4打、合格ラインに届かなかったんだ。

 悔しくない、ということはもちろんなかった。でも、落ちた結果を引きずることはなかった。自分のなかでは「まだまだ力不足でした。練習して出直してきます」という気持ちだったね。実力が足りていないことを素直に受け入れられたんだ。

 このときは最後のハーフを残して4ストロークくらい挽回しないと合格できない状況だった。このころの実力ではハーフ4アンダーを出すことは120パーセント不可能だったから、素直に白旗を上げる気持ちになれたんだ。

 2回目のテストは秋。会場は静岡県の愛鷹シックスハンドレッドクラブだった。すでに20歳になっていたから、「プロゴルファーになって故郷の成人式に出る」という目標をクリアする最後のチャンスだった。

 でもダメだった。合格ラインに届かなかったんだ。当時のプロテストは、あらかじめ合格スコアが決められていた。このときは「2ラウンドで3オーバー以内」。パー72だったから、147ストロークまでが合格だったんだ。

 このときは2ラウンドを1日でプレーした。つまり、プロテストが1日だけだったんだ。テストの日は10月26日。参加者は91人。日没が早い時期だから、朝7時からはじまって午前と午後で1ラウンドずつ。終了したのは5時10分。こういうことが当時の新聞記事に残っている。

 僕は午前のラウンドで76を叩いていた。4オーバーで合格ラインを超えていたんだ。午後のラウンドは最初のハーフを36。でも最後のハーフは39。トータル151の7オーバーでホールアウトすることになった。

 「ダメだったか!」と観念した。でも直後に思わぬ事態が起きた。全員がホールアウトしたのに合格者がひとりもいなかったんだ。コース設定がむずかしすぎたんだね。

 とくにグリーン上がすごかった。もともと芝目が強くて読みづらい、という評判があった。そのうえに砲台グリーンでピン位置が端っこだったから、アプローチもパットもなかなか寄らないし、入らなかった。僕も2ラウンドで6回も3パットをやっていた。この結果を受けて運営サイドが緊急協議を行い「テストのやり直し」が決まった。

 「助かった」と思った一瞬だった。

 やり直しは11月に千成ゴルフクラブ(栃木県)で行われた。2日間で2ラウンドになったのは、日没がさらに早まったからだと思う。最終日は11月17日。6341メートル(当時はメートル表示だった)パー72で、合格ラインは今度も2ラウンドで3オーバーまで。

 僕は初日1オーバーの73だった。2日目も1オーバーでトータル2オーバー。記録上は3位タイでテスト合格をはたすことができた。

 最終ホールはパー5だった。ティグラウンドに立ったときのスコアも通算2オーバー。ここがボギーでも合格だった。2打目が植え込みの根元に止まって3打目がトラブルになったけど、距離はなかったから慌てなかった。パターで転がしてフェアウェイに出し、4打目をピンの1・2メートルに寄せたんだ。この時点で合格が確定した。

 ちなみに、兄弟3人がプロになったのは初めてだった。それが話題で新聞に出たようだった。それによれば僕はこんなことをいっている。

 「比較的楽なラウンドだったけど、18番はさすがにシビレました。これで世話になった兄貴(ジャンボ。長兄将司)に恩返しができました」

 このとき、ジャンボはゴルフ日本シリーズに出ていて関西にいた。そしてトーナメント会場でのインタビューでこういっていたらしい。

 「再テストがラッキーだったけど、それを生かしたことをホメてやらなければ。合格は早くて来年だと思っていたから、うれしい誤算だよ」

 「来年だ」といいつつも、ジャンボは鹿島、香取の両神宮のお守りを持たせてくれていたんだ。

 また、この日はジェット(次兄建夫)もコースに来てくれた。ジェットは前の年にプロになって、この年はトーナメントで首位に立つなどの活躍をしていた。ふたりの兄弟のはげましがあったことが大きな力になったことは間違いない。それを思うと「兄たちに負けないように、これからが勝負だ」という気持ちが強くなった。




攻め方と打ち方両方のバランスをとる

 考えてみれば、プロになるまでの道を順調に歩いてこられたと思う。

 ゴルフを本格的にはじめて4年半。だれかに教わることもなく、高校時代はラウンド数もかぎられていた。ジャンボやジェットのようなパワーはないし、技術的にも「これがうまい!」と評価される名人芸はもっていなかった。その意味では20歳の合格が「うれしい誤算」というジャンボの気持ちはそのとおりかもしれない。

 でも合格できたことは事実。なぜかは簡単にいえないけど、強いてあげれば、前述した研修生時代の仲間とのラウンドだろうね。スコアをつくる力を養えたおかげだ。スコアを減らすことを徹底して追究したことが、合格の近道になったと思う。

 『最初はスイングをつくる。それができたらコースマネジメントに進む』

 こういう方法よりも短い時間で「2日間147ストローク以内」が出せるようになった。

 でも「コースマネジメントをやれば必ず早くうまくなれる」とは思わない。狙ったところに球を運ぶ技術も必要なのは当然だからね。

 僕の場合、両方を同時に磨けたのだと思う。こんなことが普通の人に参考になるかどうかはわからない。でも「まずはスイングづくりから」という考え方でなかなかスコアが縮まらないなら参考にできると思う。攻め方と打ち方。両方のバランスをとる方法はいろいろあるから、どんどん試してみてほしい。

 そしてもうひとつ、大事なものは自信だよね。

 僕はプロテスト合格を信じていた。だからテストのときも意外に落ち着いてプレーできた。合格時に「シビれた」といったのは事実だ。「20歳で合格」のラストチャンスだったんだから、自然にプレッシャーがわいた。でも、アドレスに入るときには冷静になれたんだ。

 「必ずよい結果が出る」と本心から信じられていたからだろう。「落ちたらどうしよう」と思ったら、プレッシャーは天井知らずで大きくなる。焦りと不安で自分のゴルフなんかさせてもらえなくなっちゃう。

 そういう心理にならなかったから、コースマネジメントが徹底できた。

 たとえば千成の最終ホール。3打目をパターで出せたのも「ボギーは絶対獲れる」自信があったからだ。「4オンだと、シビレて3パットしたらダボになる。1打差で落ちてしまう」なんて考えたら、無理やり3オンを狙ったかもしれない。

 さらには7オーバーだった愛鷹のとき。僕は3パットを6回もやった。それは「グリーン真ん中狙い」をやめなかったせいでもある。真ん中に乗せると端のピンまでは10メートルかそれ以上残る。でも「3オーバーまでは合格」のプロテストではパーを獲ることが最大の基本。真ん中に乗せて2パットが基本だと判断したんだ。端のピンを狙えばバーディチャンスにつくかもしれないけど、グリーンをはずしてボギー、ダボの危険性もある。だからがまんした。

 こうしたプレーを徹底するために、大事になるのがメンタルマネジメントだ。

 パーでいい、と思っていても人間だから「狙いたい」と思うことがある。愛鷹でも何度となくそういう気持ちに襲われた。ただ、誘惑には負けなかった。「ここは狙っちゃいけない」と自分にいい聞かせたんだ。そういう「1打1打」の重みをすごく感じてプレーしていた。こうした気持ちのコントロールを一生懸命にやらないと、コースマネジメントの効果も存分には生かせない。

 ちゃんとやっているのに、うまくいかない。そういうときはがまんができているかどうかを確認してみる、といいと思う。思わぬ誤算が生まれないようにね。

 こうして順風満帆にプロになった僕にも、じつは誤算が生まれていた。胸を張って故郷の成人式に戻ったときのことだ。「プロゴルファーになった」といっても、仲間がピンとこないんだよ。考えてみればゴルフがどういうものかがよく知られていない田舎だから、仕方がなかったんだね。でも、あのときの残念な気持ちは忘れられないよ!

(続く)






尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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