連載コラム

舩越園子 サムライたちの記憶

田中秀道

2014/6/23 22:00

  • LINE
小柄な「ゴルフ職人」が挑み続けた5年間



 田中秀道に初めて出会ったのは2002年の春だった。前年秋のQスクール(予選会)の最終予選を見事突破して、この年から米ツアーの正式メンバーになった田中。その2年前から参戦していた丸山茂樹に続く日本人選手として、彼は本格参戦を開始した。とてもユニークな選手、というのが最初の印象だった。ひどく生真面目かと思えば、陽気におどけて見せて、寝食を忘れるほどゴルフひと筋かと思えば、趣味のショッピングには勇んで出かける。田中にはいろんな面で意外性が感じられ、取材するのも楽しかった。


やさしい気遣い

 田中はつねに謙虚でていねいだった。顔を合わせると必ずキャップやバイザーを取って頭を下げ、話すときは敬語。たぶんそこには、立場の違いはあれど、年上や目上の人を敬うという彼なりのポリシーがあったのだと思う。

 米ツアー1年目。ルーキーイヤーの田中は、なんでも自力でやってみようというこだわりもあったようで、先輩である丸山とはあまり接することなく、助言も仰がず、すべて見よう見まねでやっていた。出場試合を決めるのも、どんなコースで、どんな形式で、どんな場所にあるかといった予備知識はゼロ。当時はネット社会ではなかったから、見知らぬ土地に関する情報や知識は得にくく、その場へ行ってみて初めてわかることも多かっただろう。それでも彼は、いつもじっとこらえながら、黙々と戦っていた。

 田中がAT&Tペブルビーチ・ナショナル・プロアマに初出場したときのこと。練習日に出くわすと、だれかにいいたかった! という感じで、「この大会って、試合がプロアマなんですか? コースが3つって……」と戸惑った様子。「そうなんですよ。これは変則形式。こういう大会が年にいくつかあるんです。それに、このコースは有名できれいだけど、この時期カリフォルニアは雨季だから、グリーンがやわらかすぎてぐちゃぐちゃでしょう?」といってみたら、「そうなんですよ。そうそう。知りませんでした……」と困り顔になっていた。

 とはいえ、それで落胆したりひるんだりするわけではなく、来た以上、出る以上は必死に挑む。そんなひたむきさは彼の練習ぶりにもはっきりと見てとれた。

 あるとき、あるテーマに対するコメントがたったひと言だけほしくて、「これこれの話をしたいんですけど」と練習場で球を打ちはじめた田中にたずねた。すぐさま答えてくれることを期待していたが、彼はそのとき、スイングのなにかに目覚めたらしく、だから手を止めたくなかったのだろう「すみません、ちょっと待っててください。あとちょっと打ちたいので、ちょっと待っててください」というので、もちろんですよと答え、後方で待つこと1時間以上。田中がふとわたしのほうを見て、近寄ってきた。「す、す、すみません。もう終わりますから。もうちょっとで終わりますから……」そして、また1時間経過。途中、何度も田中は声をかけてくれたが、ついに手を止めて質問に答えることはなく、2時間以上が過ぎていった。

「終わりました。お待たせしました。ちょうど開眼してしまって……で、なんでしたっけ?」

 取材に待機はつきもの。待たされるのには慣れていた。だが、何度も申し訳なさそうに声までかけてもらうと、ちゃんと答えるつもりでいるのだとわかるから安心できるし、待つことが苦にならなくなる。田中には、練習に夢中になりながらも、周囲にそんな気遣いを見せるやさしさがあった。

 その一方、試合における田中は頭に血が昇りやすい選手だった。ツアーで戦う戦士ゆえ、負けず嫌いは当然だが、彼は納得のいかないプレーになってしまったとき、その悔しさをホテルへ持ち帰ってしまうところがあった。自分に腹が立って言葉も出ない様子で、ホールアウト直後の囲み取材のために待ち構えていた日本メディアの群れを強行突破したり、逆方向から去っていったりというケースもしばしばあった。

 そんなとき、わたしは必ず小走りで田中を追いかけ、「田中さん田中さん、ちょっとだけ、お話聞かせてくださいよ」と、声をかけた。それでも足早に去っていこうとする田中に、声をかけ続けた。すると、ロッカールームの入り口まで来たとき、彼は観念したように立ち止まり、「もう……自分が許せなくて……」などと悔しさを言葉にしたものだった。

 なぜわたしは逃げていく田中を必ず追いかけたのか。なぜ田中は最後に必ずひと言話してくれたのか。その理由はわからない。ただ、わたしには、彼が必ず想いを言葉にしてくれるという確信めいたものがあった。だからだれも追いかけようとしないシチュエーションでも、迷うことなく、田中の背中を追いかけたのだと思う。


なんのために戦っている?

 いま思えば、田中は不思議なテレパシーみたいなものを発していたのかもしれない。そのテレパシーを受け取ると、そこには田中とその人物を結ぶパイプのようなものが出来上がり、意志や想い、そして信頼も、そのパイプを通して相互に通い合う。

 きっと、そんなテレパシーのせいだろう。田中には、びっくりするほど熱狂的なファンがつねにいた。米ツアーの試合会場には、しばしば女性ファンたちが日本からやってきて田中のラウンドにぴったりついてまわっていた。ちょっぴり話を聞いてみたら、田中はカラオケがとても上手で、踊りながら歌う姿は「郷ひろみ級」だと彼女たちが教えてくれた。わたしはプロゴルファーの田中しか見たことはなかったが、こんなところにも彼の意外性は隠されていたのだなと、そのときは思わず苦笑させられた。

 そして、彼のテレパシーは米ツアーの観戦にやってきた米国人の男性ギャラリーたちにも届いた。どこかの試合で上位争いを披露した田中のプレーぶりに魅せられ、熱狂ファンになった筋骨隆々のマッチョな男たちが、田中のトレードマークだったアリンコをデザインしたおそろいのTシャツを着て、別の試合会場へわざわざ出向いてきたことが幾度かあった。

「ターナカー!」と太い声をそろえ、熱い声援を送っていたマッチョマンたちは「スモールガイのビッグハートに惚れた」といった。彼らの言葉は、田中が日ごろからずっといい続けてきた彼のゴルフそのものだった。

「日本の小柄な男が大柄な欧米選手たちに負けじとドライバーで飛ばして戦っている姿を見て、ひとりでも勇気や元気を出してくれる人がいればボクはうれしい。そのためにゴルフをやっているんです」

 本当のことをいうと、田中のその言葉には「小柄な日本人が大柄な欧米選手たちを負かして優勝する姿を見せたい」という「続き」、いや、「結び」があった。そして彼は実際、米ツアー優勝に何度か王手をかけ、かぎりなく頂点に近いところまでにじり寄った。

 ああ、今回こそ田中が優勝する、ついにヒデちゃんが勝つ。わたしも心の底からそう思ったことが幾度かあった。だが、彼の優勝はついにかなわず、米ツアーで勝つことの大変さ、むずかしさを、嫌というほど思い知らされた。


職人気質

 どんなにがんばっても勝利に手が届かぬまま、田中はよく辛抱していたといまでも思う。不調に陥った05年は、もはやシード維持は厳しそうに思えたが、最後の最後に踏んばって、翌年も米ツアーで戦えることになった。苦しいなかで必死に笑顔を見せる彼を応援する意味も含めて、彼が借りていたロサンゼルス郊外のアパートを訪ね、インタビューをしたことがあった。

 手土産に田中の大好物のケーキを持っていこうと思い、ロサンゼルスで日本風のケーキを売っている店に立ち寄った。「横文字のむずかしい名前がついたケーキは好きじゃない。ふつうのイチゴショートとか、チョコレートケーキとか、そういうのが好きです」と田中は以前からいっていた。そういえば、彼はお寿司の巻き物では「かんぴょう巻きが好物です」

 好きは好きでも、これは好きでこれは嫌いという具合に結構なこだわりがあり、好きなものは大抵、むかしながらの懐かしい香りが漂う。なんとなく、伝統芸能を継承する職人みたいな気質が彼には感じられ、それはアパートの部屋のなかに足を踏み入れた瞬間、確信に変わった。

「うわっ! すごいパターの数……」

 一体、何本あったのだろう。軽く100本を超えるパターがリビングルームの壁に、ソファの周囲にずらりと並べられていた。まったく同じ型やデザインのものも何本かあったが、わずかな感触の違いがあるから別モノだという。

 それほどゴルフが好きで、たゆまぬ努力と研究を重ねていた「ゴルフ職人」が、翌06年には予選も通らない絶不調に陥り、日本へ帰っていった。そのうしろ姿を思い出すたび、米ツアーの厳しさと恐ろしさ、そしてちょっぴりむなしさを感じる。

テーマ別レッスン

あなたのゴルフのお悩みを一発解決!

注目キーワード
もっとみる
閉じる