連載コラム


ツアープロ

2014/7/15 21:00

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社会人の仲間入りができ正直、安堵した

 プロテストに合格した僕の目の前には、新しい目標が生まれた。

・試合に出られるようになること
・いつかは優勝すること

 プロとして賞金を稼ぐには試合に出なければいけない。そこで勝てれば一番大きな賞金が獲得できるし、シード選手として試合に出続けられるようになる。

 ゴルフで生きていくと決めたときから、稼げるプロになることは「できる」ことだとイメージしていた。そういう前向きな意識があったからプロテストも「受かるもの」と考えられて、シビレを抑えられた。だからプロになってからの目標も漠然とながらも「やれる」と考えていた気がする。

 でも、夢だけを見て、のんきに過ごせていたわけでもなかった。よく考えれば、稼げる保証なんかどこにもないことに気づく。そういう世界を選んだのだから、いくら若くても、そのくらいはわかっていた。本当にやれるのだろうか、ということは、考えないわけではなかった。

 ただ、そういう不安をいだいても、深刻に悩むことはなかった。不安よりも希望。そういう世の中の雰囲気があったからだと思う。世の中はどんどんよくなる、というのが70年代の共通認識だった。そのなかでもゴルフはイメージのいいものとして盛んになりつつあったことが感じられた。スポーツであり、社交的であり、リッチ。いいことだらけのように捉えられていた気がする。

 プロになってすぐに日東興業という会社と契約してもらえたのも、そうした時代のおかげだったと思う。以前からお世話になっていたゴルフ場の会社だ。その後、その会社はなくなってしまったけど、プロ入りからずっと所属契約を続けてくれたことには心から感謝している。

 最初の契約金は年間360万円だった。月額30万円は当時の大卒初任給の2倍よりもさらに多かったらしい。それまで決まった収入がなかった自分にはとても大きな金額だった。

 「これで自分のお金で試合にいける。食事代も自分で払える」

 そういうことが本当にうれしかった。

 プロになってゴルフで食べていく。そこを目指してがんばってきた。プロになれない数年間はお金がなかった。それは、自分の感覚でいえばどん底にいる気がした。買い物も食事も、普通にはできない感覚をもっていたわけだからね。

 だからプロになるまでは頭を低くしてがんばる覚悟をしていた。そんな自分をジャンボやまわりの人が応援してくれたわけだけど、それだけに契約金がもらえるようになったことは、ほんとうにうれしかったんだ。

 ホッとひと息つけた。

 それが正直な気持ちだった。お金がもらえるようになって、社会人の仲間入りができた。そういうふうに安堵したことは、いまもよく覚えている。




5年間かけて25歳でシードに届く

 でも、このホッと一息は瞬間的な安らぎだった。一人前に近づいたことで、自分のゴルフに重苦しい圧力を感じるようになったからだ。応援してもらったからには、それにこたえなければならない。そういう責任感と義務が生まれわけだ。

 そのために「やれる」と考えていたこと=試合に出ること、優勝することが「やらなければならない」に変わっていった。といっても暗くなったわけじゃない。試合がどんどん増えていたころだから、それを目指して賞金を獲りに行こうという意欲もどんどん強くなっていた。

 ただ、いきなり大活躍するほどの実力はなかった。それなのに試合に出ればマスコミから注目された。「ジャンボの末弟」はなにかにつけて記事になる存在だったからだと思う。注目されるのは嫌いじゃない。ありがたいことだった。そのおかげもあって、ファンのまなざしも注いでもらえるようになった。とてもありがたいことだったけど、それだけに結果が出ないと気まずい気持ちになったりもした。

 思い返してみると、気持ちが揺れていた時期だったと思う。

 でも、すぐに覚悟を決めたんだ。

 「自分で望んだ道だから、逃げ出すことはできないな。逃げたらダメだ」

 そう思って一歩ずつでも前に進もうと腹をくくった。そうしたら、本当にそれが現実になっていったんだ。

 77年は獲得賞金40万円あまりで賞金ランク111位。78年は約220万円で67位。79年は約487万円で39位。80年は約640万円で36位。そして5年目の81年に初めて1000万円の大台を超えた。シーズン終盤の試合で3位に入れて通算賞金額が1162万円になり、ランク22位。初のシード権も獲得できた。これもすごくうれしかった。

 当時のシード権はランク30位以内。かなり狭き門で、その一角に食い込むのは大変だったんだ。そのころはシードがないと研修会で上位に入らなければ試合に出られなかった。ひとつの研修会で2カ月間の出場権を獲り、コツコツ試合に出て、コツコツ稼いでいってシードに届くまでに5年かかった。25歳のときだった。

 その年齢でそこまで行けたのは、順調だったと思う。ゴルフをやるために、高校入学と同時に東京に出てきた。そんな青年が25歳できちんとした生活ができるほど稼げるようになれたことは、十分な結果だったとわかっていた。




ドライバーとショートパットの練習

 思えば、このころは、僕のゴルフが一番伸びた時期だった。やっとテストに受かった状態から、日本で20番目くらいの選手になれたんだからね。一歩ずつ前に進む、というやり方は手堅いようだけど、5年間続けて前に進むことはむずかしい。技術が上がっても結果がそれに伴うという保証は、ゴルフにはないからだ。

 たとえばショットが着実によくなっても、それに連動してスコアが縮まる、ということは約束されていない。ゴルフの調子をずっと保つことはできないからだ。プロは、クラブを機械のように振れる、とアマチュアの人は思われるかもしれない。間違いではないんだけど、それでも調子は日替わりになるものなんだ。

 完ぺきな打球を打ち続けた翌日に、構えの向きに違和感や不安をいだく。絶好調とどん底を短時間で経験するという宿命からはだれも逃れられない。大げさにいえばそういうことになる。それがよくわかっているいま、着実に前に進んだあのころは「よくがんばったな」と思えるようになった。

 それができたのはなぜか。正確な答えはわからないが、その当時の僕は「ふたつに絞る」という工夫をして練習に取り組んでいた。

・ショットはドライバーを徹底的に打ち込む
・小技はショートパットを打ち続ける

 ドライバーは一番大きなスイングで、それだけにショットが不安定になる傾向があった。当時はプロの試合でもドライバーでのOBがよく出たんだ。スピンがかかる糸巻きボールを、小さなパーシモンのヘッドで強く叩くから打球がよく曲がった。フェースが開けば大きくフケて右に曲がる。ボールを押さえ込もうとすると左に曲がる。ドライバーでOBを打ったことがきっかけで、スコアを崩して予選落ち、という選手も少なくなかった。

 そのドライバーショットを制御することは、とても大事だった。スコアづくりではアイアンが大事なのは当然だけど、その前にドライバーだ、という気持ちが強かった。

 「ドライバーがうまくなれば、小さいスイングのアイアンは自然にうまくなれる」

 そう考えていた部分もある。別の言い方をすれば、小さなスイングのアイアンは、パワーヒッターじゃない僕でもなんとか打ちこなせる、という自信があったんだろう。アイアンに比べたらドライバーは苦手という意識もあったのだろう。

 それならドライバーをやるのは当然ではないか。理屈ではそう思えるよね。でも、なかなかそうはいかないものなんだ。苦手なものほど練習時間が少なくなる。そういう傾向があるからだ。

 苦手の練習は気分がよくない。うまく打てないフラストレーションもたまるから、しばらくやるとやめたくなる。気持ちよく打てる得意なものの練習がついつい増えてしまう。当然だけど、それでは苦手はなくならない。とくにドライバーは1ラウンドで14回使う大事な番手。フェアウェイにコントロールしていける自信がないと、ホールの攻め方を組み立てられなくなる。飛距離も大事だけど、狙ったところになんとしても運べるようになることをすごく意識して練習した。

 ドライバーをしっかり運べれば、アイアンのショット力をもっと生かせるようになる。スコアメイクもしやすくなる。「ドライバーの練習は避けては通れない。逃げることはできないぞ」と自分に言い聞かせながら取り組んでいた気がする。

 もうひとつのパットの技術は、ほかの選手たちとは大差はない、と判断していた。青木功さんのような名人級を除けばひけはとらない。そういう自負を持っていた。

 それでもショートパットの練習に取り組んだのは、試合を重ねるほどに「短いパットが大事だ」という思いが強くなったからだ。「パット・イズ・マネー」という言葉の意味が、痛いほど感じられるようになっていった。

 だから1~2メートルのパットはほんとうによく練習した。ドライバーを振り続けてカラダが疲れたらパットをやる、というのも効率がよかった。試合に出ても、ホールアウト後の練習グリーンで短いパットをたくさん打った。

 真っすぐ真ん中に打つ。右カップを狙う。左カップを狙う。基本はこの3パターン。これがきちんと打てるようになると、実戦でカップインできる確率が高くなった。長いパットの距離感も大事だけど、この当時は試合ごとにグリーンの状態が大きく変化した。いいタッチで打っても2メートルくらいのパットが残る、ということがよく起きた。それをどのくらいの確率で入れられるか。その技術をコツコツと磨いていった。

 それから現在まで、ショートパットの練習は欠かしたことがない。いまも3つのパターンでカップを狙う練習は繰り返している。スコアを縮めたいなら、試してほしい方法だ。

▲真っすぐ真ん中に打つ、右カップを狙う、左カップを狙う。パット練習の基本はこの3パターン。いまでも続けている



 こうして5年間をかけて「ゴルフで生きる」ことができるようになった、と思えたのだが、そこから少しずつ自分の気持ちが変化していった。欲が膨らみはじめたんだ。

 トーナメントに出て、いろいろなハードルを越えたことで「勝ちたい」という意欲がすごく強くなった。プロになったときから優勝することは目標に入っていたけれど、当初は「勝てるだろう」「勝てればいいな」という程度の軽さもあった。それがまったく別の、強い気持ちになっていったんだ。

 そこから僕のゴルフ人生が変わっていった。正確にいえば僕自身が自分に期待するものが大きく変わっていった、ということになる。

・優勝したい
・日本一のタイトルがほしい
・賞金王を獲ってみたい

 この3つの目標に向かってゴルフをやらなければいけない。そういう気持ちが湧き出してきた。20歳のころのように無邪気に「できる」とは思わなくなっていたんだ。5年間ツアーで戦ってきて、強い選手、うまい選手がたくさんいることもわかっていた。だから「やらなければならない」という思いにかられるようになった。

 いまにして思えは、この「できる」と「やらなければ」の差はとても大きかった。「やらなければ」は「できないかもしれないけど、がんばろう」という気持ちの現れだからだ。

 そこから苦しみがはじまった。僕は1打ずつの重さをより強く意識するようになり、もがきながらゴルフをするようになっていった。そして、初シードを獲った2シーズン後の1983年に、生涯忘れることができない「負けゴルフ」を経験することになった。

(次回へ続く)




尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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