連載コラム


つかみかけたツアー初優勝

2014/8/8 21:00

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スイングが不恰好でも勝つチャンスはある

 20歳でプロになり、25歳でシード選手になれた。「一歩ずつ、前に進めている」と感じた。プロゴルファーとして、フォローの風を背中で感じていた5年間だった。

 そして、風に吹かれている間に、自分への期待感も膨らんでいった。「勝ちたい」という欲望が大きくなり「勝たなければいけない」と思い込むようになっていったのである。

 プロテストは「20歳までに合格する」と決めていたが、初優勝の期限は区切っていなかった。その当時、1970年代後半から80年代にかけては、すべてが無限に成長し続けるものだとだれもが思っていた時代だった。だから、プロになってしばらくのうちは、僕はのんきな感覚をもっていた。

 「シードを獲り、試合に出続ければ、いつかは勝てるさ」

 こうした子どもじみた考え方が、試合という戦いの繰り返しで揉まれて、変化していった。「早めに勝ちたい」「勝たなければいけない」に変わったのだった。とくにシード権を獲ったあとは、日ごとにそういう気持ちが強まっていった。

 月例会(ツアー出場のための予選会)に出る必要がなくなり、試合に集中できるようになった。一人前のツアーのメンバーとして扱われて、いい意味での自負心も生まれてきた。自分の内側と外側の両方から「そろそろ優勝しようぜ」という声が聞こえてくるようになったのだ。

 「そのころに、勝てる実力があると思っていたのか?」と尋ねられれば、答えはイエスだ。賞金ランク22位に入って、初めてシード権を獲得したのが1981年。翌82年は獲得賞金を2300万円近くまで増やし、賞金ランクも13位まで這い上がっていたからだ。「一歩ずつ」どころか、二歩も三歩も前に進めた感じがした。「日本のベスト10」が目前だったのだから、勝てないはずがない。そう思えるようになっていた。

 ただ「勝てる実力とはなにか」についてはわからなかった。ゴルフを『ボールを操る技術=スイングのテクニックを競うもの』と考えるなら、「日本のベスト10はすぐそこ」と断言する自信はなかったからだ。スイングについては、自信よりコンプレックスのほうがずっと強かった。

 技術は「見て盗め」の時代。手とり足とり教えてもらえることはまったくない。じつの兄のジャンボでさえ、レッスンはほとんどしてくれなかった。多くの人は、ジャンボ軍団で若手を指導するジャンボの姿を記憶していると思う。でも、そういう活動をはじめたのは、もう少しあとだ。当時のジャンボは、自分のゴルフを追求することに全エネルギーを注いでいた。それに、スイングはワンポイントアドバイスでよくなるものじゃない。それがわかっていたから安易に聞くこともしなかった。また、このころのジャンボは勝ち星に見放されていた。81年は0勝。82年は関東オープンの1勝だけ。賞金ランクもこの2年は28位、16位とジャンボらしくない低迷ぶりだった。弟をかまっている暇はなかったと思う。

 いまのようなツアーコーチもいなかったから、大半の選手は自己流だった。スマートなスイングができるのは、ジュニアから基礎を習ってきた学士(大卒)プロ。そんな認識が一般的だった気がする。僕のような叩き上げのプロは、個性的なスイングやストロークをしていたものだ。だから、すべてをそつなくこなせるオールラウンダーもいなかった。だれもがどこかでミスをする。そういうなかでのしのぎ合いだから、スイングが不恰好でも勝つチャンスはある、と見ていたんだ。

 さらに僕はふたつの強みがあるから、勝てないわけがない、とも思っていた。

・若さがある
・負けない気持ちはだれよりも強い

 つまり、ゴルフはスイングの技術だけを争うものではないと思っていたんだ。その考えはいまも変わらない。勢いや気力、気迫といった目に見えないものでも技術は補える。僕はそういう力に助けられて成績をあげてこられた部分があった。その延長線上で「優勝する」こともできると思って83年のシーズンに臨んだのだ。




5打のリードを7ホールでひっくり返されての大惨敗

 実際に、初優勝は九分九厘まで手中にできた。でも、勝てなかった。あと一歩。そこが前進できなくて、手痛い敗北を喫したのだ。

 関東プロゴルフ選手権は関西プロゴルフ選手権とともに1931年にはじまった。まさに歴史的なトーナメントだ。関東プロと関西プロの開催は同週。一週にふたつのトーナメントがあって、ふたりの優勝者が出た。初優勝を狙う僕にはチャンスが大きい週でもあった。

 それまでにも関東プロではいろいろな経験をしていた。ツアー出場2年目の78年(新千葉CC)には、3位で3日目を迎えて長兄ジャンボ、青木功さんとラウンドした。そのときは1番でジャンボがOB。2番では僕がOBを叩いて、青木さんに優勝をさらわれた。まだ新米プロだったから、たいしてショックは残らなかったけど、83年はその青木さんとの優勝争いになった。

 開催コースは伊香保国際CC(群馬県)。僕は2日目に66を出し、7年目で初のトーナメントリーダーに立った。3日目は青木さん(2打差の2位タイ)と最終組でプレーして69。青木さんは単独2位に上がったがスコアは70。差は3打に広がっていた。

 最終日は7月3日、日曜日。もちろんこの日も青木さんとの最終組だった。じつはこの年、僕の調子はよくなかった。好調だった前年に比べてスイングのリズムが悪く、パットもあまり入らなかった。やむなく前の週は試合を休んで調整に努めた。その効果が出て、この試合では非常にいいゴルフができていた。勝てる感じがしていたのだが、優勝を争う相手が特別な人だった。

 この年の青木さんは、2月にハワイアンオープンで奇跡の逆転イーグル。米ツアー初優勝を飾っていた。日本ツアーでも1カ月前の『札幌とうきゅうオープン』で優勝していた。青木さんの賞金ランクは76年から82年までで1位5回、2位2回。日本最強のプレーヤーが破竹の勢いに乗っているときだった。

 楽には勝てないだろうと考えるのが当然だった。でも負けるつもりもなかった。

 「優勝への課題は精神面。しぶとく、最後まで喰らいついていく」

 そういう言葉をわざと口に出して、自分を鼓舞していったんだ。

 最終日は意外なことからはじまった。雨と霧で18ホールのプレーが9ホールに短縮されたのだ。リードしている僕にはラッキーな展開だけど、「最後までしぶとく喰らいつく」気持ちは変えなかった。リードはないものと思って気持ちを引き締めてプレーした。

 その効果でスタートの10番でバーディが獲れた。青木さんは10番をパーで終えて、11番は3パットしてボギー。2ホールで差が5打まで広がった。残りは7ホール。

 俄然有利な展開になった。判官びいきのギャラリーからは、僕のほうに大きめの声援が送られてきていた。リード拡大で「優勝」を強く意識する状態になっていったんだ。

 うわつきかけたその気持ちが落ち着いたのは、直後の12番ホール。青木さんがここでバーディを獲り返し4打差に戻った。「さすがだな」と感じて気持ちが引き締まった。4ホール目と5ホール目はともに2パットのパー。4打差のまま残りホールだけが4つまで減った。「勝てるのではないか」と思ったかどうかは覚えてはいない。でもそういう意識はもったと思う。そのせいか、6ホール目の15番パー4はショットを乱してボギーを叩いてしまった。それでも、もともと9ホール全部をパーセーブできるとは考えていなかったから、これは想定内として気持ちを整えた。

 だが、そうしてスタートと同じ3打差で迎えた16番パー3で大きな出来事が起きた。青木さんは8メートルくらいに1オン。僕は4番アイアンでティショットを打った。このホールはグリーン左に池がある。ロフトが立っている4番アイアンは左に曲がりにくい。池ポチャだけは避けよう。そういう計算をして打った。

 ところが計算どおりにはいかなかった。打球が大きく左に曲がっていったのだ。当然のように水面に水しぶきが上がった。池ポチャだった。でも、そこから必死でボギーを獲りにいった。3打目を打ちやすいのは池から離れたところ。大きく下がってドロップしてピンを狙ったが、カップまでは6メートルくらい残った。それを入れればボギー。「必死に喰らいつく」気持ちを盛り立てていたのだが、その目の前で青木さんは8メートルをねじ込んできたのだ。僕のボギーより先に、青木さんのバーディが決まったのだ。

 「勝負の鬼だな」というギャラリーの声が聞こえたが、同感だった。こっちは6メートルのパットをはずしてダボ。3打差が一挙にゼロになってしまった。

 それでも残り2ホールに向かって気を取り直した。17番は445メートル(当時はメートル表示)のパー5。僕は渾身のショットを連発して2オンをはたした。だがそこから3パットしてパーで終わった。青木さんは2打目をグリーン左にはずしたが、3打目を寄せて1パットのバーディ。ここで勝負が決まった。18番の長いパー4(426メートル)でバーディを獲るのはむずかしかったからだ。結局、最後はふたりともボギー。1打差で負けた。5打もあったリードを、たった7ホールでひっくり返されて、大惨敗を喫したのだった。




プレッシャーでゴルフは変わる

 試合後に、テレビ局はふたりを並べてインタビューをした。世界の青木が貫録を見せ、若い直道がその軍門に下った。そういう絵柄だった。そのことはなんとも思っていない。勝負の行方をファンに見せるのがプロの仕事。そのために悪天候のなかで多くの人が試合ができるようにしてくれて、見守ってくれて、盛り立ててくれたのだから、応えるのは当然だった。

 だから僕は全力でインタビューに臨んだ。顔は土気色だったけど、青木さんと握手もしたし、引きつりながら笑顔もつくった。翌日のスポーツ新聞には「泣くな! 直道」という大きな見出しが載ったけど、涙を流す気持ちはみじんもなかった。

 でも、ひとつだけ受け入れられないことがあった。僕より7?8センチ背が高い青木さんが左腕を僕の肩に回そうとしたことだった。僕は体をかがめて無意識にその手をかいくぐっていた。僕は、青木さんにとってはライバル・ジャンボの弟。健闘をたたえる気持ちだったかもしれないが、情けをかけられるような形になるのは嫌だった。「精神力で喰らいつく」といったゴルフができなかったという悔しさが、心の中に満ちていたから受け入れられなかったんだと思う。

 このときのビデオは、その後も折を見ては見返した。悔しさを忘れそうになったときの心の点火薬にしたんだ。敗戦をバネにする。そういう行動が、このあとの僕の戦いを支えてくれることになったが、この試合はその先駆けになった。

 その後の僕は、頭が痛くなるくらい「なぜ負けたんだ?」と考え続けた。

 とくに16番のティショット。ロフトが立った4番アイアンで右に打つはずだったのに、インパクトでヘッドがクルリンと左に返ってしまった。左サイドが詰まり、ヒッカケたんだ。その映像は、記憶の中にハッキリ残っていた。

 「なぜ、あんなスイングをしてしまったのだろう?」

 そのことをずっと考え続けた。その結果、「プレッシャーがかかると、ゴルフがどう変わるのか」ということがわかってきたのである。焦りではない、別のなにかが自分のゴルフに大きなミスを生み出すスキをつくっていたことがわかった。そして、それが翌シーズンの初Vへつながっていくのだが、このときの僕には、どうすればいいのかがわからなかった。残り半年の83年のシーズンを、もがきながら前に進もうとしなければならなかったのだ。

(次号に続く)




尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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