連載コラム


初優勝

2014/9/18 21:00

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自分で決めたショットの手順を守れなかった理由

 残り7ホールで5打のリード。それを守れずに、青木(功)さんに逆転負けを食らった。それが1983年の関東プロゴルフ選手権だった。プロとして7シーズン目。一歩ずつ前に進んでいた僕の初優勝は、幻に終わった。

 なぜあんな大逆転を喫したのか。そのことを考えるといつも、一気に3打差を縮められた最終日16番パー3に思いが行きついた。青木さんはバーディ。僕は1打目をグリーン左の池に打ち込んでダボ。3打もあったリードをゼロにしたホールだった。

 ゴルフは「なぜだ?」と叫びたくなるスポーツだ。

 たとえばパット。ボールを完ぺきに転がせたのにカップインを逃すことがとてもよくある。もちろんショットにも「なぜだ?」はある。よい打ち方ができたはずなのに、打球がよくないところに止まる。そういうことが起きるからだ。

 ただ、16番で池ポチャした1打目は、引っかける打ち方をしてしまった。そのことはハッキリわかったが、「なぜ、そんな振り方になったのか」ということがわからなかった。「勝ちたい、勝ちたい、と焦ったのではないか?」といわれることが多かった。よく考えてみたが、僕の心のなかに焦りはなかった。緊張感はあったけど、プレーを急いではいなかった。では、なにがミスを生んだのか。僕はこんな結論を出した。

 「プレッシャーが思考力を鈍らせた。『こうしよう』と決められなくなり、『なんとかなるだろう』という精神状態でボールを打ってしまった」

 ボールを打つとき、僕はこういう手順をとる。

[1]狙い=ボールを打っていく場所を決める
[2]球筋=ボールを運ぶ球筋を決める
[3]打ち方=狙った球筋を打つための振り方・打ち方を決める

 スイングに入るのは、3が決まってからだ。

 だが関東プロ16番の1打目は、3がしっかり決められなかった。いつもなら『左を避けるために、アドレスや振り方はこうしよう』と決めるのに、ショットに必要な方法を明確にできなかったんだ。だから『左は避ける』と決めた4番アイアンの1打目で、ティアップを高めにしてしまった。左に引っかけやすい状態をつくるという、ちぐはぐなことをやっていたんだ。

 手順を守れなかった原因は焦りじゃなかった。ちゃんと考えようとしたのに、頭のなかがまとまらなかったんだ。気持ちを『打ち方を決める』ことに向かわせられなかった。考えたのに答えが出てこなかった。そのあたりが自分の実感だった。

 そして、そんな状態でスイングをはじめたのは『まあ、なんとかなるだろう』と思ったからだ。その甘さが、なんともならないミスショットにつながったのだった。『打ち方をキッチリ考えてからボールを打つ』ことをやらなかった。言い方を換えれば『準備を万全にやらずにスイングをはじめた』のだ。一番大事な場面で、そんないい加減なプレーをしたとわかったときは、自分でもおどろいた。そして、こんなことを考えるようになった。「この段階まできたら、逃げて勝つことはできないんだな」

 以前にも書いたように、僕はコースマネジメントでスコアをつくるゴルフをやってきた。その基本は、危険を避けることだった。

 左に危険なゾーンがある。左に打つと次がむずかしくなる。そういうときは徹底して左を避ける。打ち方は『左には曲げない』打ち方を選択する。この方法が僕のゴルフの基礎になっていた。研修生時代に仲間に負けたことがなかったのも、20歳でプロテストに合格できたのも、危険を避ける攻め方のおかげだった。

 ゴルフはボギーを打つのは簡単なのに、バーディはなかなか獲れないゲームだ。ナイスショットをピンに絡めても、次のパットで「なぜだ?」が出るとバーディを逃してしまう。それなら「パーを守る」ことを基本にすべきだと考えた。パーを重ねながらチャンスをつくってバーディを獲る。そういうゴルフを自分のスタイルにしたんだ。

 でも、それが関東プロの優勝争いでは通用しなかった。土壇場でプレッシャーがカラダを包んだときには、具体的な打ち方が考えられなくなってしまったんだね。それでは『左には曲げない』というコースマネジメントが役に立たなくなるのも当然だった。

 研修生レベルのニギリのゴルフやプロテストでは「避ける」ことで結果を出せた。そういう『逃げて獲る』ことが、ツアーの優勝争いではできなかった。でもそのおかげで、それなら次はこうするしかない、という答えがやっと得られた。

 「今度は自分で踏み込んでいって勝つ」

 そういうゴルフが必要だと腹をくくった。避けることと逃げることは紙一重。その一重の差が16番ではショットの曲がりに、17番では3パットになって出た。「曲がる、はずれる」という自分の悪いところが全部出た。僕は自分の精神力の未熟さを責めに責めた。

 その結果として認識できたのは、自分の弱さだった。そして、こういうことを考えた。

 「自分のゴルフのやり方を変えなければ勝てない」

 逃げ得はダメだ。勝ちを獲りにいかなければ。そう思ったんだ。でも、どうすればいいかはわからなかった。その後、いろいろな方法で勝ちを獲りにいったけど、結果はかんばしくなかった。




結婚式の一週間後のツアー初優勝

 結局この年はダメだった。勝てないままに終わった。

 この年の賞金額は2255万円あまり。前年より43万円ほど減った。賞金ランクは前年と同じ13位でシード権は安泰だったけど、プロ入り以来初めて「前に進む」ことができない年になった。その点で、少し自信がしぼみかけた。

 でも「ここが自分の最高到達点なのか?」とは思わなかった。「絶対に勝てる。あと一歩、前に進めばいいんだから」と思い続けていた。

 そんな時期に、人生というラウンドで記念すべき出来事があった。この83年のオフに、世志江と婚約したことだ。発表したのは尾崎ファミリーのクリスマスパーティだった。

 このとき僕は27歳。もともと「自分で稼いで、家を建てて、家族を養うのが男の生き方」だと思って生きてきた。そのためにプロゴルファーになった。そうして稼ぐことができるようになったんだから、嫁さんをもらって家庭をもつことに躊躇はなかった。

 ひとつだけこだわりがあったのは「勝ってから結婚したい」ということだった。このとき世志江はまだ20歳。女子大生だったから、結婚を急ぐ必要もなかったしね。

 でも、年が明けて84年の開幕が迫ってきたころに、急に「シーズン前に式を挙げよう」ということになった。とまどいながらも、そういう流れになったらそれに乗ろう、という気持ちにもなった。本心では、早く式を済ませたいと思っていたのかもしれない。

 うして式を挙げたのは3月初旬。15日からはじまる開幕戦の一週間前だった。試合が新婚旅行みたいな感じだったんだ。

 その静岡オープン(静岡CC浜岡コース)で、僕は念願のツアー初優勝を勝ち獲った。初日は1アンダーの71で7位タイ。2日目の70で首位タイになり、3日目は75を叩いて2打差の単独2位に後退した。首位は山本善隆さん。僕より5歳年上で華麗なスイングの持ち主。日本プロを含めて、前年までに12勝していた強豪だった。

 最終日。僕は巻き返しに成功した。10メートルを超える強風のなか、前半は全部パーで、2打差を詰めて首位に並んだ。そして10番、11番の連続バーディで抜け出したあとは、再び全部パー。終わってみれば5打差をつけて優勝できた。

 関東プロの惨敗から1年もたっていなかったけど、同じ失敗はしなかった。風が強くてグリーンは小さかったけれど、最後まで「確実に乗せていける」という自信は揺るがなかった。クラブの振り方、ボールの打ち方もハッキリ決めてからスイングに入った。「なんとかなるだろう」というあやふやなショットは1度もしなかった。その点で『勝ちを獲りに行く』ことができていたと思う。

 優勝を確信したのは18番パー4のティショットをしっかり打てたときだった。左に大木があって、フックするとそっちに曲がってOBゾーンに飛び込む。それを避けることができたときに「勝てた」と思った。もちろん「左を避ける」ための振り方もきちんと決めてスイングできていた。

 そういうプレーができたことが一番うれしかった。プレッシャーで答えが見つからない、というゴルフにならなかったことで「また一歩、前に進めた」という手ごたえを得たからだった。




プレッシャーでゴルフは変わる

 すごい負け方と、余裕を感じられる勝ち方。   このふたつの違いはどこにあったのだろうか。僕はそのことをかなり長い間、考え続けた。

 ゴルフが好きな人は「スイングがよくなったよ」といってくれた。コンパクトな振り方になって安定性が出た、といわれたことが何度もあった。たしかにそういう感じにも見えたけど、自分ではオフの間にスイングを変えた覚えはまったくなかったんだ。強風のコースでプレーすることで、自然にそういう振り方になった、という感覚のほうが強かった。

 そもそも、僕にとってスイングは求める球筋を生み出してくれるためのもの。球筋がイメージどおりに打てるならスイングもOK。そういう感覚だったから、よけいに「スイングのおかげ」だとは思えなかったんだ。結局、プレーの面からは「これのおかげだ!」という答えは見つからなかった。

 意外だったのは、プレー以外の面では思い当たることが出てきたことだった。じつはこの試合には「なにがなんでも勝ちたい」という気持ちでは臨んでいなかった。シーズンの初戦だったこともあるし、直前に結婚式を挙げたばかりでもあったしね。そういうザワついた感じがリラックスにつながったのかもしれない。

 たとえば2位に後退した3日目は、世志江が結婚後に初めて応援にきた。「そのせいで気持ちがウワついてしまった」というコメントを僕がしていたそうだ。自分では覚えていないけど、ホントにウワついている感じだね。でも、それだけリラックスしていたのだとも思う。

 もっとも、最終日は必死だった。目の前に勝つチャンスがあったときに、勝ちたいと思わなかったことは、僕には一度もない。あのときも勝ちたくて必死にやっていた。ただ、そのテンションが変な方向にいかなかった。それはリラックスの効果かもしれない。

 そして、それとは矛盾するかもしれないけど『結婚した直後だからこそ、勝ちたい』という気持ちも強くもっていた。結婚してダメになったといわれるのは嫌だったからね。カッコ悪いよ、男として。結婚したら幸せにしたい。そういうプレッシャーを抱えてプレーしていたんだ。

 こんなふうに、物事はプラスの面とマイナスの面が表裏一体になっている。だからこそ、こういう気持ちになっていった。

 「勝つために大事なものを簡潔に特定することはむずかしい」
 つまり、当面は全力のプレーを続けて一歩ずつ前に進むしかない。そういうことだと思った。
 しかし、実際には初優勝は予想以上に大きな力を僕に与えてくれた。開幕戦で初優勝したこの年、僕はさらに勝ち星を積み上げていくことになった。二歩も三歩も前に進んでいけたのだ。
 だが、それがまた新たな戦いの扉を開けることになった。開幕戦のときには予想もしていなかった苦しみを、僕の心にもたらすことになったんだ。(次号に続く)




尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。この年3勝をあげツアーの中心選手のひとりになる。91年賞金王。93年から米ツアーのシード権を8年連続で守る。97年国内25勝目をあげ永久シード獲得。99年2度目の賞金王、同年史上5人目の日本タイトル4冠獲得。50歳になった2006年から米シニアツアーに参戦。12年は日本シニアツアー賞金王。国内32勝。徳島県出身。フリー。

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