連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

撤退宣言から一転、撤回宣言した理由

2015/11/1 22:00

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肉体的、精神的に限界を感じた97年

 93年から始めた米ツアーへの本格挑戦。ボクは97年の半ばから「撤退」を宣言するようになった。

 あしかけ5年目だが、自分の中では「石の上にも3年。それは頑張ってやり通した」という感覚があった。きちんとシード権を獲って、万全の準備をして臨んだのが94年から96年まで。その期間を終えて臨んだ97年は、米ツアー挑戦の集大成にしようという気持ちをもっていた。

 英語が話せないなりにも米ツアーでのプレーや過ごし方には完全に慣れた。ゴルフの調子も悪くない。「そろそろ勝つぞ!」という意気込みも、やる気もあった。

 それなのにまったく結果が出なかった。5月末までに15試合に出たのにシード権更新のめどさえ立てられなかったんだ。当時はシードを失ったらQスクールを戦って出場権を取り戻すしか道がなかったが、そこまでやるつもりはなかった。

 第一の原因は、肉体的な限界を感じ始めていたこと。米ツアーに挑戦しながら日本ツアーにも出る。そういう2本立てを続けてきた疲労が溜まって、40歳を過ぎた体が悲鳴を上げ始めていた。

 第二は精神的なもの。「もうそろそろオレが頑張らなくてもいいだろう」と思える状況になっていた。日本から、米ツアーに挑む選手が続々と出てきていた。加瀬秀樹選手や佐々木久行選手のような、大型でパワーがあるプレーヤーがチャレンジを始めていた。細川和彦選手や丸山茂樹選手など、技や勢いのある若手も「いきたい」といい出していた。

 そういう状況を知って「自分の役目は果たせたな」と思った。青木功選手が切り開いた米ツアーへの道を引き継ぎ、次の世代への橋渡し役ができた。そういう気持ちになったんだ。

 不思議なことに、米ツアーでは苦しんでいたのに、6月に日本ツアーに戻るといい成績が残せた。4試合目からは2週連続優勝。通算25勝を達成して終身シード権も獲得できた。日本ツアーには自由に出られる権利を得て、米ツアーへのチャレンジが心おきなくできる状況になった。それなのに「撤退する」気持ちは変わらなかった。そのままいけばシード権を失う。「撤退」は余儀ないんだけどね。

 ところが意外なことが起きた。米ツアー挑戦の最後の3試合と決めた8月3連戦。その最初の試合である「ビュイック・オープン」で優勝争いに絡み、自己ベストの2位タイでフィニッシュした。賞金ランクも一気に上がり、シード権が獲れる状態になった。

 それでも撤退宣言を取り消すつもりはなかった。ひとたび「やめよう」と決意したことを、1試合の結果で覆す気持ちになれなかったからだ。「ビュイック・オープン」で優勝していたら、撤退宣言を撤回していたと思う。やっと勝てるようになったんだから、もう少し頑張ろう。そういう気持ちに素直になっていただろう。でも2位タイは微妙だった。優勝スコアとは4打も差があり「勝てる手ごたえ」を感じたか、といわれれば素直にイエスとはいいづらかった。

 だからこの試合の直後に、こんなコメントを口にしてしまった。

「もう米ツアーでやり残したことはない。今は家族と離れて米ツアーに専念できる状態じゃないんだ。期待されるのはうれしいけど、これ以上続けるのは苦しいだけだ」

 事実、その後に出た2試合の成績はサッパリで、「全米プロ」は予選落ち。出場者が少なく予選落ちがない「ワールドシリーズ」も26位タイ。「ビュイック・オープン」の2位タイは、その後の成績を変えてはくれなかった。

 そうして予定どおりに3試合を消化して、日本に戻った。心の中では、米ツアーへの感謝を込めた惜別の言葉がいくつも湧き出してきていた。


シード権があるのに本当にやめていいのか?

 だが、日本ツアーで戦っていく間に、自分の心が揺れ始めた。「撤退」を決めたはずだったのに、しだいに「本当にやめていいのか?」という迷いが出てきたのだ。

 賞金がシード権獲得に足りなければ堂々と辞められた。実力が足りなくて排除された、という結果は屈辱だけど、実際にはそのほうが楽だった。日本でまた頑張って、気分が新たになればチャレンジを再開できる日が来るかもしれない。そう思っていたからだ。

 でも、シード権という資格がありながらやめるのは、とても難しいことがわかってきた。だれもがプレーできる場所じゃないだけに、撤退するには勇気がいる。実際、Qスクールには毎年たくさんの選手がチャレンジしていて、猛烈な戦いを演じている。その上の舞台で戦える権利を捨ててしまっていいのか。そういう気持ちをもつようになっていった。さらに迷っている間には、米ツアーで一緒にプレーしてきた選手や、米ツアーの本部からも手紙をもらった。


無欲が生んだ自己最高成績

 ジョーには来シーズンもプレーしてほしい。きっとやれるよ。もう少し頑張ってみてほしい」というような、そんな内容だったと記憶している。これには気持ちを揺さぶられた。自分が外国人で日本ツアーでの戦いを続けるかどうかで悩んでいたら、こんな言葉をかけてもらえただろうか。米ツアーの選手や組織を動かす人々の懐の深さをあらためて知った気がした。そして、ボクの悩みはますます深くなっていった。

 そういう中で、こんな疑問が湧き上がってきた。

「なぜ『ビュイック・オープン』で2位タイになれたのか?」ということだ。

 とくに何かの調子がよかった、という記憶はない。もちろん技術面はよかったはずだが、「ショットが曲がらなかった」とか「パットが絶好調だった」ということはなかった。だから答えが見つからなかった。そんな中でしだいにハッキリしてきたのは、あの試合に臨むときは「なんの欲もなかった」という精神面だった。前にもいったように、あの試合では「シードを獲りたい」と思わずに最後までプレーしていた。だから試合を終えてシード圏内が確実になったと知っても「撤退する」という気持ちはみじんも変わらなかったんだ。

 最終日を迎えて「ここまで来たら勝ちにいく」という気持ちはあった。でもそれは当然のことだ。そういう気持ちがなければまともなゴルフができないのがプロの性分。「欲があった」という状態ではない。つまりは無欲の状態で「ビュイック・オープン」に臨めていたのかもしれない。

 捨てることで、新しい芽が出てくる。

 そんな言葉があったと思う。あの試合でボクは、米ツアーへのこだわりを完全に捨てていた。本来ボクは何かにしがみついて、必死に前に進むタイプなんだけど、あの試合は違っていた。今までとは気持ちを切り替えて臨めていたことはたしかで、そうしたらこれまでの自分のベスト記録を更新することができた。

 それを象徴していたのが最終日、最終ホールのプレーだった。18番は435ヤードのパー4。ティショットは大きく右にいき、林を超えて、隣のホールのフェアウェイまで曲がった。そこからの2打目は160ヤードくらい。6番アイアンの高い球で林の上を超えたら、それが2オンになった。ピンまでは6メートルくらい。1パットで沈めてバーディでフィニッシュできた。パーで終わっていたら、ボクの順位は7位タイまで下がっていた。自己ベストもシード権もなかったと思う。

 勝負どころの大詰めでティショットを曲げたときは

「パーを拾えればヨシだろう」と思ってしまうことがある。バーディを諦めてしまうと、パーを獲るのがやっとになる。すると、そのうちの何回かはパーを逃す、という結果になりやすい。

「ビュイック・オープン」の最終ホールでは、「パーならヨシ」という諦めも「何とかバーディを」という欲もなかった。普通に2打目を打てて、その結果がバーディになった。

 いろんな意味で「無欲」なプレーができた。それに対して「神様が最後のご褒美をくれたのかもしれない」とも思えるようになってきていた。

 無欲になると強くなれる。そういう話はいろんな人から聞いた。でも、自分でゲームを組み立てて、自分でボールを打っていくゴルフでは「欲をもたない」ということがあり得るのか、疑っていた。不可能だろう、と考えていたが、それが現実になった気がした。

 考えてみれば、この年の日本ツアーでも似たような体験をしていた。2週連続優勝で手に入れた終身シードは、意識してはいなかったのだ。もしも「25勝をいち早く達成したい」と考えていたら、その達成にはもっと時間がかかっていたかもしれないのだ。無欲になると、自分の力をより強く発揮できるようになる。そういうことは確かにあるのかもしれない。でも、その境地に入る方法はわからなかった。

 欲を意識的に捨てにかかると、集中力もなくしてしまうかもしれない。そのほうがボクには怖かった。欲をもつのか、無欲になるべきか。その答えは見つからないまま時間がすぎ、米ツアーをどうするかもなかなか決められなかった。


妻のひと言で決めた再チャレンジ

 終盤の日本ツアーでは成績が回復した。「フィリップモリス」から「日本シリーズ」までの5連戦は2位(タイ2回を含む)3回、5位タイが2回。勝てなかったが、好成績でシーズンを締めくくれた。そして、ボクは米ツアーへの挑戦を続けることにした。「撤退宣言」の「撤回宣言」をすることにしたのだ。

 本当に悩み続けた。そんなボクの背中を押してくれたのは、このときも妻だった。米ツアーへの申請期日が間近に迫ったある晩、世志江がこういってくれた。
「ホントは行きたいんでしょう?それなら行ってくれば?」

 その言葉でボクはもう1年、米ツアーで戦うことを決めた。ただ、それは悲壮な決意でもあった。体のことも、家族と離れて暮らすことも、心配なしではすまなかったからだ。だからその翌年、米ツアーに旅立つときの表情は、いつになく厳しいものだったらしい。旅立つボクを目撃したある人が、こんなことをいっていた、というのだ。「プロゴルファーが遠征に出るときに、あんなに寂しそうに家族に別れを告げるものだとは思わなかった」

 たしかにこのころは、いろいろな意味で明るくものごとを考えられなくなっていた時期だった。とくに心残りは子どもの成長を見守れないこと。自分はずっと親の生き様を見て育ってきた。同じことを、育ち盛りの子どもに見せられず、大事なことを教えられなくてよいのか。そのことが頭を離れることはなかった。それでもきちんと育ってくれたのは、妻のおかげだった。親はなくても子は育つ、というが、我が家の場合は「親父が留守でも子は育った」ということになるのだと思う。

 そうして臨んだ98年の米ツアーは、1月の「ボブ・ホープ・クライスラー」を皮切りに17試合に出場した。2月末から3試合連続で予選落ちを喫したが、その後は10試合で予選落ちは1度だけ。後半にかけて盛り返すことができ、賞金ランクは121位。ギリギリながらシード権を更新できて、翌年も米ツアー挑戦を続けることになった。

 もちろん日本ツアーの出場も続けた。だが、前年とは違って優勝はできなかった。チャンスはあった。とくに首位で最終日を迎えた「日本オープン」は、この試合を初制覇できるビッグチャンスだった。だが、その最終日にボクは自滅した。かつてないほどの深い自己不信に陥りそうな、すごい負け方を喫したのである。

(次号に続く)

シード権があるのに撤退していいものか?とくに調子がよかったわけでもないのになぜ『ビュイック・オープン』で2位タイになれたのか?そう考えたとき、今までと違ったのは「なんの欲もない」という精神面だった。ただ、その境地に入る方法はわからなかった。それをたしかめるために撤退を撤回して、ボクは再び渡米した。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ、59歳。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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