連載コラム

尾崎直道自伝 一歩ずつ前に

「日本オープン」初制覇を迷いで逃した42歳の秋

2015/12/2 21:00

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プロの最高の勲章は賞金王。それまではそう考えていた



 1998年、ボクは42歳でこの年の『日本オープン』を迎えた。

 いうまでもなくこの試合はその年の「ゴルファー日本一」を決める大会。プロ、アマを問わず予選会からの出場が可能で、毎年変わる開催コースの設定も厳しい。あらゆる面で他の試合とは異なっていて、日本ツアーでも別格の扱いを受けてきた。

 そのため、ツアーで戦うプロの間でも「もっとも勝ちたい試合」といわれる傾向があった。裏を返せば、それだけ「なかなか勝てない試合」ということになる。

 76年に最初の賞金王を獲った青木功さんは、82年までの7年間で賞金王5回、2位が2回。ランクが3位以下に下がったことがなかった強豪だった。国内メジャーも82年までに『日本プロマッチプレー』4勝、『日本プロ』『日本シリーズ』各2勝。「日本」がつくメジャーに8回も勝っていた。それなのに『日本オープン』には勝てなかった。勝利へあと一歩、というところまでは何度もいったのに、優勝を逃していた。そのタイトルを青木さんが初めて獲ったのは83年。41歳のときだった。

 ボクも『日本オープン』にはなかなか勝てなかった。初めてベスト5に入ったのは82年(2位タイ)。26歳でツアーでの優勝経験もないときだった。このときは優勝した矢部昭選手とは5打の大差がついていた。ボクは最終日に66のビッグスコアを出してこの大差だから「優勝争いをした」という実感はなかった。

 翌83年は5位タイだが、このときも優勝の青木さんとは7打差。87年の単独5位は優勝者(このときも青木さん)と3打差で、ようやく優勝を意識できるところに行った気がする。その後は92年に6打差の4位タイ、96年に4打差の5位タイと、ベスト5には頻繁に入ったが、勝つことはできなかった。

 といってもボク自身は『日本オープン』のタイトルにこだわってきたわけではなかった。20代のころからずっと「プロの最高の勲章は賞金王」と考えてきたからだ。

 メジャー大会に勝つことは、とても名誉なこと。ただ、どんなタイトルでも年に30以上あるツアーの1試合である。1週間輝くよりも、年間を通じて輝きたい。高いレベルで上位に食い込み続けることがツアーで稼ぐプロの理想で、その最高位が賞金王。そんなふうに考えていたんだ。

 もちろん賞金王を獲るには優勝が必要になるが、メジャーでなければいけない、ということではない。その点でも『日本オープン』にこだわりはもってこなかった。

 それが少しずつ変わってきた。「きっと生涯をかけても獲れないだろう」と思っていた賞金王が獲れた。それが35歳のときで、その後に米ツアー挑戦を始め、いつの間にか40歳を過ぎていた。その間に、心のどこかで「がんばっていればそのうちに『日本オープン』も勝てるだろう」と考えていたのかもれしない。でもそうはならなかった。そんな現実に気づいたとき「チャンスを作って『日本オープン』に勝ちにいきたい」と考えるようになっていた。

 幸いだったのは、『日本オープン』の開催時期が10月半ばだったこと。そのシーズンの米ツアー出場は8月末くらいで切り上げることが多かったから、そのあと日本で調整する時間がとれる。そういう巡りあわせになっていたんだ。

 やがてチャンスがめぐってきた。それが98年だった。


"勝ちにいく"と断言したがパットに不安があった

この年の開催コースは大洗ゴルフ倶楽部(茨城県)だった。井上誠一設計のシーサイドコースだ。周囲を大木の林で囲まれ、距離はたっぷりとあり、海辺の強風が吹きつける。日本オープンでは、さらに深いラフと狭いフェアウェイ、硬いグリーンという難しい条件が加わってくる。厄介な戦いになることは容易に想像できたが、自分にとってはかえってプラスになるという自信があった。米ツアーでタフなコースをたくさん経験していたからだ。

 初日は雨に見舞われた。グリーン上に水が溜まり、ローラーをかけてパットをする状態で進行がひどく遅れた。全員のホールアウトはできなかったがボクはホールアウトできた。その中ではトップの1アンダー。翌日に全員がホールアウトするとトップは2アンダーで1打差のスタートになった。

 2日目は好天に恵まれたがイーブンパーの72。通算1アンダーで、トップの田中秀道選手に1打差の2位タイ。いい位置で決勝ラウンドに進めた。

 3日目はボギースタートになったが直後の2番でイーグル。68をマークして通算5アンダーでホールアウト。2位に3打差をつけてトップに立つことに成功した。

「明日は勝ちにいく」とインタビューで断言したが、その後に「プレッシャーに負けないようにしたい」とも口にした。余計なことをいったのは、自分の中に不安があったからだ。パッティングだった。

 パットの不安はこの試合で始まったものではなかった。以前から少しずつ増大してきていたのだ。それが『日本オープン』の初優勝を射程内に捕えたときに、ムクムクと大きくなってきた。悩んでいたのはパットのグリップを含めたスタイルだった。通常の握り方でいくか、クロスハンドでいくか。どちらも納得できる打ち方が続かなかったから、深く迷っていた。

 最終日。その迷いがスコアを伸ばせない原因になってしまった。1番はバーディ発進。だがその後はバーディが獲れなくなった。チャンスにつけてもパットが決まらない。やがて3番でボギーがきた。1番のバーディが帳消しになり、その後はパーを続けて粘ったが、13番でこの日ふたつ目のボギーを叩いた。それでこの日はオーバーパーに転じてしまったが、そこから盛り返すことができなかった。前日、4ホールで4アンダーを稼いだパー5でも、まったくバーディが獲れなくなっていたからである。

 その間に田中選手に追いつかれ、逆転されていた。田中選手は3打差の2位タイからスタート。ボクのひとつ前の組で回っていたが、彼との差は終盤では2打に広がっていた。18番パー4で田中選手がボギーを叩いて1打差になったが、ボクはパーで終わった。追いつくことはできなかった。

 この敗戦は痛かった。勝負事だから、負けるのはしょうがない。最終日の田中選手は5つものバーディ(2ボギー)を奪った立派な勝者だった。そうした相手へのリスペクトとは別に、「自滅した」自分が本当に情けなかった。

 ひどい負け方をしたことは過去にもあった。でもプロとして円熟期を迎え、米ツアーで自分を磨いてきたあげくの自滅はかなりショックだった。

 その遠因は米ツアー挑戦を続けたハードスケジュールでもあった。疲労と故障が蓄積。そのために思いどおりのゴルフを続けられないストレスも蓄積していった。それでも試合に出れば1打でも削ろうと全力を尽くす。それが最終的にはパットに対するストレスを強めていった。この『日本オープン』では、パットへの不安が非常に強くなり、ラウンド中に握り方を変えてしまうほど自信をなくして混乱していた。

 結局、98年のシーズンは優勝がひとつもなかった。日本での賞金ランクは17位、米ツアーは17試合で24万ドルあまり、賞金ランクは121位。シード圏内の125位以内なので、99年も日米ツアーの掛け持ち状態が続くことになった。

「心身に過大なストレスがかかる状態で、なぜ米ツアーへの挑戦をやめないのか?」と聞かれたこともあった。だがそれについては前の年に深く悩んで答えを出していた。「やれるかぎりは米ツアーで戦おう」と決めたのだから、悩むことはなかった。出場権を失うまでは、ボロボロになってもチャレンジを続ける。そのための準備をこの年の短いオフの間にやって、年明けには米ツアーに旅立った。

 1999年のボクの開幕戦は1月17日からの『ソニー・オープン・イン・ハワイ』(46位タイ)だった。この試合から3月末まで8試合に出た。予選通過は8試合中6試合。最高順位は8試合目の『ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップ(TPC)』の10位タイだった。ボクにとっては相性のいい試合。初日は69で1打差の3位タイと好スタートし、2日目は68とさらにスコアを伸ばしてトップに立てた。一昨年、自己最高の2位タイを記録した『ビュイック・オープン』以来の米ツアーでのトーナメントリーダーだった。

 それで「今度こそは結果を出したい」と意気込んだせいなのかどうか、3日目は81を叩いてしまった。それでも20位タイにとどまれたのは、難しいコース設定だったから。だから最終日は73の1オーバーでも10位タイまで順位を上げられた。


1年9カ月ぶりの勝利は単独首位の完全優勝

 この後は日本に一時帰国して、日本ツアーに出た。国内の開幕戦は『つるやオープン』だった。兵庫県のスポーツ振興カントリー倶楽部は6827ヤード・パー72と距離的には短めな設定になっていた。初日は4月15日。ボクは9バーディ、2ボギーの65でラウンドできた。ショットが安定していたうえに、9つものバーディが獲れたのはパッティングがよかったからだ。2ホールに1度のバーディ奪取ができたことは記憶にないくらいの出来だ。『TPC』のころからパットはよくなっていたが、それを持続できて日本でさらによくなったことがうれしかった。

 だが2日目は暗転した。強い風はショットで克服したのに、肝心のパットが決まらなくなった。特に18番は6メートルのバーディチャンスから3パット。結局2日目は2アンダーの70。かろうじて1打差で単独首位を守ることができた。

 前日は絶好調。翌日は不調。こういうことが繰り返されるのがゴルフだということは、嫌というほど経験してきた。だから一喜一憂はしないが、翌日からの決勝ラウンドを控えていただけに、不安の種は残った。

 ところがその翌日はまたビッグスコアが出た。6アンダー、66をマーク。この日はパットが復調し、アプローチもよかった。前半のパット数は12で寄せワンのパーが4回獲れた。後半はチップインイーグルの0パットを含めて13パット。18ホールを25パットで回ったことで通算スコアは15アンダーまで伸びた。2位の小達敏昭選手との差は4打に広がった。

 最終日はもちろん勝ちにいった。2位との差を計算しながら無理のない攻め方を続けて前半は1バーディ、ノーボギー。最後の9ホールは2つのボギーが先行して、ちょっと苦しい展開になったけど、その後に2つのバーディで獲り戻して2位の鈴木亨選手に2打差をつけて逃げ切ることができた。

 ボクにとっては通算26勝目。終身シードを決めた25勝目から1年9カ月ぶりの勝利を、初日からトップを守る完全優勝で飾ることができた。完全優勝は5回目だが、すべて単独トップというのは初めてだった。

 米ツアーでは最高のプレーができてもトップに立つことは難しい。日本ツアーではそのトップを守って勝つことができる。このように日本での優勝から日米の大きな差を感じさせられることがある。寂しいことなのだが、最高のカンフル剤にもなった。優勝は心の栄養になる。傷つきかけていた自信を取り戻せる効果がある。それがカラダの回復につながることも少なくない。勝つことは、やはりすごいことなのだった。

 そういう効果で弾みがついたのか、この年の日本ツアーでは驚くような好結果を出し続けることができた。あの「日本一決定戦」でのリベンジを果たせるチャンスも巡ってきたのである。

(次号に続く)









生涯獲れないと思っていた賞金王が獲れた35歳。米ツアーに挑戦するようになりいつの間にか40歳を過ぎていた。そのうちに、勝ちを意識していなかった「日本オープン」に、勝ちたいと考えるようになっていた。42歳でそのチャンスは巡ってきたのだ。



尾崎直道 おざき・なおみち
1956年5月18日生まれ。174cm、86kg。プロ入り8年目の1984年「静岡オープン」で初優勝。91年に賞金王に輝いたあと、93年から米ツアーに挑戦し8年連続でシード権を守る。ツアー通算32勝、賞金王2度、日本タイトル4冠。2006年から米シニアツアーに参戦。12年日本シニアツアー賞金王。14年はレギュラーとシニアの両ツアーを精力的に戦い「日本プロゴルフシニア選手権」で2年ぶりの優勝。今季も勝利をめざし両ツアーを戦う。徳島県出身。フリー。

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